Scarsdale station area
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ニューヨーク郊外だより  1997-8

インターネットを利用した猥褻犯罪の増加
11.17.97

信じられない事件の発生

少し旧聞になってしまったが、この夏、スカースデール学区で最も話題になったニュースは、同学区F小学校の5 年生担任で、家庭教師としても生徒に人望の厚かったミスターNがわいせつ罪で逮捕されたことだろう。地方新聞の「スカースデール・インクワイアラー」が7月18日付けで大々的にこの事件を扱って以来、町はしばらくどこへいってもその噂でもちきりと言う感じだった。

記事によれば、ミスターNは、アメリカン・オンラインのチャットルームで知り合った13歳のマイアミの少年をセックスとポルノ観賞と言う目的で誘惑したという。その際彼は,自分のことを32歳の児童心理学者で(実際は39歳)これまでもインターネットと通じて5人の少年と性的関係を持ったこと、もし心配であればそのうちの何人かに問い合わせをしてもよいこと、ロールスロイスやジャガー、ペン トレーなどの高級車を持っていることなどを紹介した。

彼にとって不幸だったのは、少年だと思っていた相手が実際にはFBIの囮であり、会話がモニターされていたことだった。オンラインではスクリーンネームを使っていたのに、車の登録番号や電話番号など自分のものを知らせたことも、身元を 簡単に確認される原因となった。

そんなこととはつゆ知らず、マイアミのホテルで一泊したあと、レンタカーで待ち合わせ場所のマクドナルドに着いたミスターNはその場で逮捕される。FBIが没収した彼の荷物の中には、少年に約束した多量のポルノディスクが入っていたとのことで、この違法行為は、16歳以下の未成年者とのセックスを目的に州をこえた罪を並んで実刑になれば、最高55年125万ドルの罰金が課されると言う。

ミスターNは、逮捕されたあと、マイアミの連邦政府留置場に2週間ほど拘留されていたが、その後釈放され、両親の家で軟禁となった。釈放の条件として保釈金の支払いの他、救急病院、弁護士、裁判所、精神科医を訪れる時以外は外出禁止、父母や関係者が同席していないところで18歳以下の子供はもちろん、19歳の自分の息子(養子)とも会ってはならず、インターネットにアクセスできるコンピューターは一切使用できないこと、などが義務づけられた。

裁判は、フロリダで行われるようで、彼はフロリダの弁護団を雇っているが、弁護団は、ミスターNは無実であり、それは必ず裁判で証明されると言っている。FBIが個人のチャットルームを無断でモニターしたことや、13歳の少年と言う餌でミスターNを罠にかけたことが合法だったかどうかも論争の焦点となるようだ。

ペダファイルの新たな誘惑の手口

スカースデール教育委員会は、その後10月21日付けでミスターNを解雇した。しかし、犯罪が法的に立証されたわけでなく、テニア制度(終身雇用)で身分を保証されている教師である彼に対する学区のこの措置は、新たな訴訟問題を呼び起こす可能性もある。

いずれにせよ、ミスターNに関する事件は、今回の解雇で一応落ち着いた感じがあるが、数少ない小学校の男性教師で、しかも子供たちや父母の間に人気のあったミスターNが一方でペダファイル(成人の、子供に対する異常性愛)だったらしいと言うニュースは関係者に深い傷を残した。学区の子供に犠牲者はいなかったとしても、インターネットを使えば、遠くの子供でも簡単に誘惑と言う発見もそれがどこにでも起こり得ると考えられる事件だけに、子供を持つ親を震撼とさせたのだった。

9月下旬、ニュージャージーの郊外PTAの資金厚めのためキャンディと包装紙を自宅近くの家を訪問しながら売り歩いていた小学校6年生の少年が性的暴行を受けた上、殺害されると言う事件があった。

数日後、近所に住む15歳の少年が逮捕されたが、後の調べてこの少年もインターネットで知り合ったロングアイランドに住む43歳のペダフィリアの男性に性的に虐待されて精神に支障を来していたことが分かった。それが殺害の直接の原因ではなかったとしながら、犯人の少年や家族に同情的な人も少なくないようだ。インターネットの普及は、いろいろな面で便利になった反面、これまでは考えられなかったような犯罪を、特に子供を巻き添えにする新しい形の犯罪を生み出している。

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スカースデールのクレッシ論争 1.16. 1998

壊された宗教のシンボル


スカースデールでは、さる12月27日の深夜、駅前のチェイス・パークに立てられていた二メートル大の ハニキアが何者かによって壊されると言う事件があった。 ハニキヤというのは、ハヌカ(神殿清めの祭)と呼ばれるユダヤ教の祭に使われる九本の枝のついた燭台(通常ユダヤのシンボルとして使われるメノラの燭台は7本)。そのうちの三 本が根本からへしおられていたと言う。二日後、ハニキヤは再び正統派ユダヤ系の一グループによって新しいものにおきかえられたが、点灯の儀式のあと、グループのメンバーは、ハニキヤの汚損は一宗教に対する偏見であるとして、テレビや地方新聞などで強く抗議をした。ハニキヤほど大きなニュースにはならなかったが、その一週間前には、駅前のバニフェイス・サークルに設置されているクレッシ(キリスト生誕の場面)の一部が壊されるという事件もあった。宗教のシンボルに対するこうした一連の行為に強く非難しながら、その置かれている所が公共の場であったことに対して、あらためて複雑な思いをした住民は少なかったようだ。

クレッシ論争

スカースデールの町では、毎年クリスマスの時期になると、(今年は珍しく静かだったが)駅前のバニフェイス・サークルと言う小さな公園に飾られるクレッシを巡って、地方新聞の投書欄で様々な意見が飛び交う。バニフェイス・サークルが町の所有地として住民の税金で管轄されているからで、このことが初めて町議会で問題にされたのは1976年と言うから、この町では実に20年以上も同じ問題で論争が続けられていることになる。

クレッシがバニフェイス・サークルに飾られることに異論を唱える人たちの意見は、公の場に特定の宗教のシンボルを持ち込むことは合衆国憲法がうたっている「政教の分離」に反するというもの。こうした意見を反映して町議会は、1981年、それまで毎年許可していたクレッシ展示の申請をはじめて却下した。これを不服としたクレッシ委員会は、スカースデール町議会を最高裁判所に訴える。その結果、最高裁は1985年、町議会がクレッシの展示を許可しないのは、委員会の「言論の自由」を奪うものとしてその決定を覆したのだった。以来十数年、クレッシ委員会は「この 問題は一件落着した、もやは議論の余地はない」として、毎年同じ場所にクレッシを飾っている。  
                      
そのクレッシに対抗するように、やはり町の所有地である駅前のチェイス・パークに、町議会の許可を得て2年前から ハニキヤを飾り始めたのが前述のユダヤ系の一グループである。しかし、クレッシのような宗教のシンボルは教会や私的な機関に飾られるべきであると訴え続けてきた人たちにとって、ハニキヤの展示は問題の本質を逸脱させるものだった。ハニキヤもまたあきらかにユダヤ教という特定の宗教のシンボルであるからである。

学校の宗教行事

一方、スカースデール教育委員会は、1994年に宗教的な行事に関する学区のあらたなガイドラインを打ち出した。それにより同学区では宗教に関する一切の行事が禁じられることになった。学区の中には例えば、ニューヨーク市のように、すべての子供の宗教を祝うとしている所もあるが、近年になって関連の行事を廃止してしまったニューヨーク周辺の公立学校は少なくない。全てを祝うにせよ、全く祝わないせよ、このことは学校が子供の持つ宗教や文化の多様性に感受性をもって対処しはじめたことをあらわしていて、一昔前からすると隔世の感がある。 しかし、学校から宗教色を一切廃してしまった教育委員会と、同じ町でありながら公共の場に特定の宗教のシンボルを設置することを許可しているスカースデール議会の方針は、相反するものである。これについて、スカースデール中学の社会科の教師で、歴史保存会の会長でもあるミスター・スローンは、地方新聞の記事の中で、次のような問い掛けをしていた。

「最高裁は、公共の場に宗教のシンボルを飾ることについて、グループにその権利(RIGHT)があるとしたかもしれないが、法的に適うからと言ってスカースデールのように多様文化で構成されているコミュニティで、それを遂行することが果たして本当に正しいこと(RIGHT THING TO DO)だろうか?」

スカースデールのクレッシ論争、今後も果てしなく続くと言う気がする。

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J君の死 2.23,89                          

昨年5月下旬、スカースデール高9年生のJ君が、突然首をつって自殺をした事件は、本人の周囲だけでなく、同じ年頃の子供を持つ親にも深い動揺 を与えた。成績もよく、スポーツも適度にこなす明るい少年だったというJ君、経済的にも家庭的にも恵まれていたJ君が、なぜ死を選ばなければならなかったか、誰にもその理由が分からなかったからだった。

J君は、夕食に中華料理屋に行こう と言うご両親とお姉さんの誘いに、お腹がすいていないからみんなで楽しんでおいでと笑顔で送り出し、その直後に首をつったのだと言う。ご両親や友人、先生たちには、生前の様子から彼が何かに悩んでいたことなど全く想像出来なかったそうだ。 私どもはたまたま娘がJ君のお姉さんと同級性だったことや、家族が同じユダヤ教会のメンバーであったこともあって、シバ(日本の通夜にあたるユダヤ教の 習慣。死後1週間、時間を決めて自宅を弔問客に解放するが、この間、家族の悲しみを少しでも緩和するため親戚や周囲の人たちが集まって食事などを用意す る。)に列席したが、ご両親の憔悴の様子は痛々しくて直視できないくらいだった。J君のお父さんはそれでもこちらの気持ちをひきたてるように、「Jは、わりとけちなところのある奴でしてね、葬式代がこんなにかかるなんてことを知っ ていたら、きっと死ぬことを思いとどまりましたよ。」などと、冗談を言っておられたが、その心中を察すると、何とお応えしてよいのか、返す言葉もなかった。  

スカースデール高校ではその後、精神科のお医者さんやスクール・サイコロジスト、カウンセラーなど、近隣の学区からも多くの専門家を招聘し、ご両親の了解を得た上で、「J君が何故、死を選んだか」について、繰り返し、生徒たちと の話し合いにあたらせた。両親のためにも「子供の自殺を未然に防ぐための方法」などについて、何度も専門家による講演が開催された。そうした学区をあげ ての努力が功を奏したのか、関係者がもっとも恐れていた「第2のJ君」は今も 出ていない。しかし、子供思いの両親のもとで、何不自由なく育てられ、何の問 題も抱えていなかったように思われたJ君が、突然死を選んだという衝撃的な事件は、子供を持つ親の脳裏から消えることはなく、折に触れ不安な思いを抱かせる要素となっている。

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ニューヨーク教育省が出したレポートカードの反響   1.30.98

昨年1月初旬{ニューヨーク・タイムズ」紙のウェストチェスたー版が発表したニューヨーク教育省による公立学校の評価は、スカースデール住民に少なからぬ反響を呼び起こした。5点満点で採点された3年生のリーディング・テストの結果で、それぞれ2点、3点しかとれなかった学校が学区5校のうち2校あったからだった。

この採点には、地域の貧富の差を考慮して、学区が一人の児童に費やしている年間の教育費や家庭の収入なども要素に加えられていたため、比較するには必ずしも正確ではないとする見方もあったが、それでも教育水準の高さを誇るスカースデール学区にはこの評価は寝耳に水であったようである。翌週の「スカースデール・インクアイアラー」紙は、一面で大々的にこのことを取り扱っていた。

2校のうち、特に2点しかとれなかったE小学校に対しては、「ニューヨーク・タイムズ」が外国人(特に日本人)の生徒が多いことをその理由のひとつにしたことから、日本人家族の中にはこの記事で住民に誤解を招くことを心配した人も多く、私も何人かの方にお電話をいただいた。

外国人の子供たちは通常、このテストを転入して2年未満には受けないことを考えると、タイムズ記事は明らかに誤りだったので、私はそのすぐあとで、E小学校で開かれた説明会に参加し、学校が黙っていると新聞を鵜呑みにする人がいるかもしれない旨の意見を述べた。すると、校長先生は早速PTA新聞で今回の成績と日本人の生徒とはまったく関係がないことをきちんと書いてくださった。

住民の中には、投書欄で「こんな成績では、不動産の価値が下がる、学校は早くなにとかしろ」と息巻いている人もいたが、学区が住民を交えてこの件について繰り返し話したこともあって、その後の住民の一般的な感想としては、「一回のテストで学校の評価など、できない、どこの大学に子供たちが入るかを見ればスカースデールの学校の水準は今も歴然」ということに落ち着いた感がある。

スカースデール日本人が多くて成績を下げていると言う「ニューヨーク・タイムズ」の思いこみは、しかし日本のメディアでは一人歩きをしているようで、いまだに時々それに関する記事を目にすることがある。

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対抗馬のない選挙 2.27.98

スカースデールの町では毎年3月に町議会議員の選挙がある。今年の投票日は 3月18日、立候補者は3人だ。そのうち、1人は2年の任期を終えて2期目の再選を狙う人、残る2人は初めての選挙戦となるが、投票日が近いと言うのに町には一枚のポスターも貼られていず、選挙運動の類いも全く行われていない。それもそのはずで、1月に指名委員会によって推薦された時点で彼らの当選はほぼ決まっているのである。                                                                     

議員の選挙はまず、各町内から指名委員を選ぶことからはじまる。何人かの候補者の中から選ばれるのは、学校や町のボランティアなどで活躍している知名度の高い人たちが圧倒的に多い。そこで選ばれた総勢約40名の指名委員が、今度は何回かの話しあいで議員を推薦し、最終的に住民投票にかけるのである。議員に推薦される人たちは、既に様々な活動を通してその能力や仕事ぶりが広く知られているため周囲からの信用は抜群に高い。その上、無給で、無党派議会として政党色を議会に持ち込まないため、政党の確執とか汚職など起こりようがないのだと言う。議員の数は、全員で6名、その中から2年ごとに次期町長を選ぶ。こうして選ばれた議員が町の代表として行政を決定し、実際の運営をプロのマネージャーに任せる訳である。しかし、最終的には住民投票と言う形になるにせよ、実際には指名委員会が選びだすと言うこの方法は、地域に新しい人たちや外から見ると一部の人たちが町を動かしていると言う印象を与えている。

こうした面に答えるように昨年まで3年、住民の一人ミスター・ハリソンが毎 年議員選に出馬した。議会がはじまった当初から対抗馬をたてないと言うやりかたで続いていた3月の選挙戦が、彼の立候補で、急に盛り上がったと言う感じは あったが、結局、3回とも指名委員会が推薦した候補者に破れている。先週の地方紙によれば、ミスター・ハリスンは「問題点の提起として十分意義はあった」として今年は立候補を見送ると言う。

スカースデールでは教育委員会のメンバーも同じ方法で選出されている。町議 会選とは別の指名委員が各町内から選出され、その人たちが教育委員会のメンバーを推薦、最終的に住民投票に委ねるのである。委員の中から選ばれた教育委員長が実際に運営する教育長(この場合はプロ)を任命するのも、町長とマネージャーの関係と同じだ。議会と同様、教育委員会のメンバーもその仕事に報酬はない。

スカースデールのこうした二つの代表的な行政組織のありかたをみると、この町では地方、学校行政の意思決定にあたる人がすべてボランティアの人材で成っていることが分かる。住民は町や学校作りを本当に自分たちの手で行っているのである。滞在期間が限られていて十分なことは出来ないにせよ、行事などに積極的に参加し、協力すると姿勢が高く評価されるのは、こうした地域のありようにその要因がある。

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続)対抗馬のない選挙   3.13.98

スカースデール高校では今、PTAの指名委員会が来年度の執行部を決めている最中だ。小学校と中学校では1月から始まった候補者探しがすでに終わり、後は6月の総会で選挙を待つだけ。執行部は、会長、副会長、初期、会計などの役職で、指名委員会が推薦する人材の名前がPTA会報などで候補者として発表去れ、最終的に6月の総会で選出される。選挙には誰でも立候補できるが、ほとんどは町議会員や教育委員会の場合と同様、対抗馬なしで決まる。そこで選出された会長が、今度は執行部以外の役員を指名する。

補習校や日本人学校のPTA会長選出では、会長職そのものより、後任を探すと言う仕事の方がずっと難しいことがあるが、指名委員会の存在は、会長や執行部の人たちをそうした雑事に巻き込ませないと言う利点があり、役員も早々と決まってしまうので会長が人選に苦慮することは少ない。

一方、最終的には選挙で選ばれるにせよ、指名委員会が執行部を選び、会長が役員を任命すると言うこの方法は、学校に慣れない人たちには一部の人たちがPTAを動かしているというようにうつる面もある。私も14年前にスカースデールに来た時「この学校では文集に載ったり、劇に選ばれたりするのは、PTAで役員をやっている人たちの子供が多い」などを言う声を何度も耳にしたものである。PTAの役員になるのはどうしたらいいのかと聞いたら、「すぐ役員になるの無理。まずいろいろな活動に参加して人に顔を知られることね。そうすれば、むこうから役員になってくれと頼まれるようになるものよ」と言われ、ずいぶ閉鎖的な考えだなと思ったことがある。

そのうちに、仕事につく母親たちや外国人の数が増えたことなどで、学校が新しい人たちにも最初からPTAの役員として参加することを奨励しはじめたこともあって、役員への道のりは極端に短くなった。

現在役員リストに名を連ねている日本人の数を見ると、一人もいなかった14年間前との変わりように感無量の思いがする。しかし、指名委員の推薦で執行部に選ばれ、総会で対抗馬なしで当選するようになるためには、それまでの実績が認められるための、それなりの歳月を必要とする点では、今も変わりはないようだ。

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バイアス・クライム  3.27.98

ママロネック地区では2月中旬、村内のハーバー・アイランド・パークで、ペンキで大きくスワスティカ(ナチスが標章として使った鍵十字)の落書きがされているのが見つかった。警察はすぐユダヤ系に対するパイアス・クライム(人種偏見の犯罪)として犯人探しに奔走しているが、今の所まだだれの仕業によるものか分かっていない。

ジョセフ・ランザ市長は新聞のインタビューに答えて、「こうした事件がまたしても自分たちの町で起きたことを遺憾に思う」としながら、それでも「今回の事件は2年前とは無関係のようだ」と語っていた。

2年前の96年、同地区では1月から2ヶ月間ほど、高級住宅地として知られるオリエンタ・ポイント周辺のユダヤ系住民の家で、立て続けに緑の芝生に白いペンキでスワスティカが描かれたり、玄関のドアに「ユダヤ人は死ね」と言った落書きが続いたことがあった。犯行は人に危害を及ぼすと言うたぐいのものではなかったが、近隣の住民が交代で夜間の見張りを続けているそのすきにさえ繰り返されると言う非常に執拗なものだった。

そこでこうした犯罪を見過ごすことは町の恥であるとして、ついにコミュニティ全体が立ち上がったのである。2月27日夜、ママロネックとその隣町ラッチモントの住民は、口々にバイアス・クライム(ヘイト・クライム)に反対を唱えながら、市民集会の会場であるママロネック・ハイスクールに向かって大通りのボストン・ロードを行進した。その数は2千人以上に及んだという。

集会には、両町の市長を始め、議会、学校、宗教関係者、地方選出の政治家などが顔を合わせ、住民を交えて人種偏見がもたらす犯罪とそれを防ぐ方法などに点いて熱心に話し合った。私も座る場所もないほどに満員の会場で、熱気に包まれながら話を聞いた。人種に関係なく偏見を自分たちの問題として受け止め、何もしないことを恥とする人々の姿勢に深 い感動をうけたものだった。

この事件は結局犯人が分からずじまいのままであったが、警察が警戒を強めたこと、住民が商店にビラを配り歩いてお互いの注意を促し、監視しあったりしたことなどから犯行はぴたりと止んだと言う。

今回のスワスティカの落書きは一回だけで終わっており、警察も2 年前とは無関係と見ているようだ。しかし、ユダヤ系を誹謗する同種の落書きやいたずらは、ウェストチェスター全体で見ると1年間で35件以上にものぼるという。閑静な郊外の住宅街で繰り返されるこうした犯罪は、偏見に教育水準や貧富の差がないことを物語っている。ママロネックの成功は他の地区でも参考にされるべきではないかと思う。

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ジャパン・オン・ウィールズ  4.10.98

ニューヨーク日本人教育審議会の教育教育文化交流センター(19993年にグリニッチ日本人学校内に設置)の「ジャパン・オン・ウィールズ」は、地域交流を促進するために企画したプログラムだ。老人ホームや学校などを訪問し「日本」を届けるところから、「ミールズ・オン・ウィールズ」(お年寄りや病人に食事を届ける活動に因んでこの名称をつけた。

メンバーの人たちが中心になって、折り紙や習字、お花を教えたり、着付け、お手前のデモンストレーションなど、自分たちになじみのある文化を紹介しながら、その活動を媒介に地域との交流をはかっている。

センターが設立されてまもなく私がこの活動を企画したのは、それまでの長年のPTA活動、地域ボランティア活動を通して地域に貢献したいと思いながらその方法が分からず、結局何もしないといった人たちが少なくないことを知っていたからだった。

そこで、英語ができなくても、特技がなくても、気持ちさえあれば、必ず交流できる方法はあるとして、センターのニュースレターを通して「ジャパン・オン・ウィールズ」への参加を呼びかけた。それに対し、何人からの方がすぐ応じて下さったので、以来4年近く、帰国に伴ってメンバーの顔ぶれに変化はあるものの、地域に笑顔で「日本」をお届けして、率先して交流をはかると言う活動は今も続いている。

第一回の訪問からの参加者でこの3月に帰国した木原芳美さんは、「英語ができないので地域での交流活動などとてもできないと思っていたがこの活動に参加するようになってから人と人との触れあいで大切なのは、相手に何を伝えたい思いであって、いかに上手に伝えるからは問題ではないことを身にしみて体験した」とその感想を語っていた。

去る3月7日、NBCの「フォーストリーズ」(土曜日午後7時半)という番組で「ジャパン・オン・ウジールズ」の活動の様子が紹介された。その後、ニューヨーク周辺の皆様からたくさんのお言葉をいただいたが、その中には「地域に貢献しょうと努力をしている日本人の姿勢に感動した」というものも多く、活動の趣旨が広く理解されたことが私にはとても嬉しかった。

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アメリカ生活に不可欠な寄付  5.8.1998

「スカースデール・ファミリー・カウンセリング・サービス」は、スカースデールで70年以上、専門の精神科医やソーシャル・ワーカーなどを雇って、住民の精神的ニーズに応えている非営利団体である。5月7日、グリニッチの「ハイエット・リージェンシー・ホテル」で恒例の資金集めのディナパーティを行う。このパーティでは、収益を最大にあげるために、食べ物、飲み物から飾り付けの花やテェーブルクロス、サイレント・オークションの品物に至るまですべてが近隣の店からの寄贈品でまかなわれる。著名なレストランが一夜自分の店を閉めるか、営業を縮小して毎年パーティでの会場で軒を並べて各店自慢の料理を無料で提供し、商店が高価な商品を寄贈するのは、ビジネス面もさることながら、収益の一部を地域に還元するという意味合いも含んでいる。

バーティに参加する側も同様で、例えば収入の10パーセントを寄付に当てるとしてどの団体に幾らするかなどあらかじめ年間予算を組んでいる人が多い。日本人家族からよく「どこに寄付をしていいか分からないし、一回すると何度も請求されそうで」といった声を耳にするが、それに対しては、地域の非営利団体(切手の部分にノンプロフィットと明記してある)の活動は近隣の人たちが中心になっている場合が多いので、なるべく無視しないよう、薦めている。活動に参加しなくても、寄付といった形でその団体に協力しているという姿勢を示すことができるからである。

私は前述の団体の他、幾つかの非営利団体に理事として参加しているが、その仕事のほとんどは資金集めの活動であり、寄付をしてもらえることは、運営が円滑にいくという喜びと同様、活動内容が評価されているようで嬉しいものである。日本人家族がとけ込まないと思われている面のあるところには、ボランティア団体からの寄付要請を無視することが多いことで、地域活動に関心がないと思われることにもその要因がある。

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講演と日米交流の夕べ 4.29.98

教育文化交流センターは、去る3月24日、グリニッチ・YMCAとアメリカン・アソシエーション・オフ・ユニバーシティ・ウィメンとの共催、国際交流基金の支援で講演と日米交流の夕べを開催した。

まず、センターのボランティア・グループ「ジャパン・オン・ウィールズ」のメンバーによるピアノ、パイオリン、琴の合奏とコーラス・グループ、『花みづき」の合唱で楽しんでいただいたあと、ニューヨーク・タイムズ記者エリザベス・ビュミラーさんの講演、最後はパネル・ディスカッションでプログラムの幕を閉じた。

スピーカーのビューミラーさんは、1991年から数年、ワシントン・ポスト記者として日本に滞在、その間「まりこ」と言う一人の日本女性と彼女を取り巻く家族や友人などを通してみた現代日本女性のありかたを「The Secret of Mariko」という本にまとめた人。講演では、その内容について話をしていただき、聴衆からの様々な質問には、パネリストとして渡辺理津子さんと私もそれぞれに応答した。

その時の質問の中に「日本人と知り合いになりたいのだけれど、どうしてこちらの気持ちを伝えたらよいか」というのがあった。こうした質問は私もと時々受けるが、その背景には英語がはなせない人は読めないし、書けないという思い込みがあることが多い。そこで私はこうした質問に対しては、日本での従来の文法重視の英語教育について説明し、ゆっくり話すか、紙に書けば必ず分かることを伝えるようにしている。

今回は、その他に「英語に自信は内が、何とか地域に貢献したいと」という思いから日本文化紹介の活動を通して地域との交流に努めていつ「ジャパン・オン・ウィールズ」のメンバーの活動を紹介した。

「英語はなかなか上達できないけれど、笑顔で皆様と話しているうちに、お互いの気持ちが通じあうようになった気がする」というメンバーの話を聞くにつけ、交流に大切なのは、流暢な言葉ではなく、相手に対する思いやりであることを以前にもまして感じるようになったことなどをお話させていただいた。

講演の後、参加者から「日本女性を理解するのに非常に役立った」「今後の交流活動には自分も一役買いたい」などの感想がよせられた。

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郊外に広がる青少年のアルコールとドラッグ問題 5.22.98

先日、スカースデール高校のPTAが主催した、「今、地域で何が起こっているかご存じですか?」というタイトルのパネルディスカッションに参加した。蔓延する高校生のドラッグとアルコール問題を本音で話しあおうという試みで、パネリストは、ドラッグ中毒から立ち直った20歳の男性、ハイスクールの男女生徒がそれぞれひとりづつ、母親代表、ソーシャルワーカー、サイコロジスト、警察の青少年補導係の人たちで構成されていた。

話し合いによると、スカースデール高校生の約40%は、何らかのドラッグやアルコールを口にしているという。定期的にマリワナやLSDなどを常用している生徒はもはや珍しくなく、最近の傾向としては、これが成績優秀な生徒たちの間にも広がっていることだとか。

生徒は、取り締まりが厳しくなったことをよく知っていて、学校ではそうしたものに手をださず、いったん車で外にでたり、家に帰ったりするので、(11年生以上はほとんどが車で通学)教師が現場を押さえるのは難しいと言う。

4月中旬,おとりの生徒と知らずにドラッグを売って捕まったディーラのことが地方新聞の一面に大きくでていた。彼は携帯電話で高校生の「お得意さん」からの注文を受け、場所を指定して「品物」を届けていたが、高く売れてかなり儲かる商売であったようだ。生徒の中にはプロンクスまで買いにいって、他の生徒に販売したりする者もいると記事にはあった。

警察の青少年補導係の話しによると、この問題はスカースデールに限らず、最近ではあらゆる地域で中学生にまで及ぶ傾向にあるのが懸念されているのだという。若年層に広がるドラッグやアルコールの問題についてはこれまで私もよく耳にして気になっていたが、スカースデールのような郊外の閑静な住宅街で教育熱心な両親のもとで愛情たっぷりに育てられているように見える子供たちでさえ、法に触れる薬物に手を出す者が増えているということを聞いて改めて問題の深さを感じた。

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卒業アルバムに載らなかった生徒た 6.5.98

今年もまた卒業式のシーズンがやってきた。スカースデール高校では2年前、卒業アルバムから30人くらいの生徒の写真が漏れていて、当事者の間で問題になったことがあった。その中に日本人の生徒が多かったところから、嫌がらせのために誰かがわざとしたのではないかと心配された方もあり、私は何人かの方にお電話をいただいた。

そこで校長先生に問い合わせると、アルバム委員が名前を確認しようとして写真を別にしていて、そのことをすっかり忘れてしまったとのことで、その不注意さに弁解の余地はないが、彼らに他意があったわけではないことを認めて欲しいということだった。アルバムは生徒会が中心になって作成し希望者に販売するものなので、学校がそれを作りなおしたりはできないのだとも説明された。

それでもこのままでは誤解がいたずらに一人歩きしかねないことを伝えると先生はその後、ご自分の名前で生徒と家族に詫び状を出され、アルバム委員にも、それぞれの生徒に謝ること、漏れた分の写真はあらたなページにして、卒業アルバムに挿入できるよう全校生徒に送るなどの指示を出された。

こうしてアルバムの件は、一応落着した形となったが、関係者の不注意さには確かに弁解の余地は ないとして、それでも30 人もの生徒が抜けていることを校正の間に委員の誰も気づかなかったと言う背景が私にはとても気になった。スカースデール高校では、1990年代の初め頃から日本人の急増に対処するため、様々なプログラムを実践してきたが、ここ数年、その人数はピーク時にくらべてかなり減少しているにもかかわらず、お互いどうしで固まることに学校も以前ほど神経を使わなくなっており、生徒も慣れてしまった 面があるようだ。アルバム委員のミスが写真が漏れた生徒の憤慨に関わらず、他の生徒の間で話題にさえならなかったらしいことも、交流の少なさを表しているようで、気になるのもを感じたものだった。

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ソブライアティ・マンス 6.19.98

5月30日夜、スカースデール駅前のチェイスパークで「ソブライアティ・マンス」(しらふの月)と名付けた高校生主催の行事が行われ、高校生を中心に約400人の住民が参加した。スカースデール高校生徒会が飲酒問題に対処するために企画した「5月8日から6月8日までの1ヶ月、しらふで過ごそう」というプルグラムの一環で、参加者は、パンドの演奏を聴いたり、バスケットの試合を観戦したりして、ドラッグやアルコール抜きの夜を過ごした。

「ソブライアティ・マンス」の最初の活動は、「1ヶ月間、ドラッグ、アルコールに絶対手を出さない」という宣言に始まり、これにはすぐ2000人ほどの生徒がサインしたという。その後おもな活動として、金、土曜日の夜、警察の協力を得て駅前で歩行者天国の路上パーティを主催したり、小中学校の校庭でバスケットボールのトーナメントなどを行った。この間、ドラッグやアルコールを使用している者はイベントへの参加を一切禁じられた。

生徒会主催のこうした試みにアドバイザーとして参加しているスカースデール警察のファティゲート青少年補導官は、「一部の生徒による1ヶ月だけの禁酒が問題の解決になるとは思わないが、ドラッグやアルコールがあまりにも簡単に手に入り、そのため深い考えもなしにそうしたものに手を出してしまう現状について、コミュニティ全体が考えていく上で非常に意義があったと思う」と語っている。

イベントを企画した生徒会会長のマット・エイブルソン君は、「週末の夜をドラッグやアルコールに頼らなくても十分楽しい時間が過ごせることをみんなで考える機会にしたかった」と言っている。

イベントは、来年度の生徒会にも引き継がれ、すでに9年生を対象として9月のオリエンテーションでもこの問題について話しあうなど、様々な新しいプログラムが計画されていると言う。

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JAP (ジャップ) 6.3.98

9年生の女生徒の父親が、同じ学年の男生徒とその両親、スカースデール高校長、教育委員会などを相手どってウェストチェスター最高裁に訴えた事件が今週の地方新聞の一面を賑わせている。

父親のMさんは、訴訟の理由を男生徒が「JAPに捧げる歌」という題で自分の娘にあてた詩が人種偏見で憎悪に満ちていて、放置すれば、最近連続して起きた学校での集団殺人事件の二の舞になりかねないことが心配されたためとしている。

「JAP」というのは、日本人に対する蔑称でもあるが、この場合は、「ジューイッシ・アメリカン・プリンセス」の略。「彼女は、ジャップ」などと言う言い方でユダヤ系アメリカ人女性を指し、「お金持ちで傲慢、うぬぼれ」などと言った悪口の表現として使われる。男生徒は、同級生の3人のユダヤ系女生徒に対して詩を送り、その中で「ジャップを皆殺しにしたい」とか、「顔をずたずたにして陵辱してやりたい」などと書いているのだそうだ。手紙のコピーは学校の壁にも貼られたと言う事態を憂慮したMさんがサイコロジストに相談すると、「言葉としての脅かしだけでなく、何らかの意図をもって書かれたと考える必要がある」と言われる。

そこでMさんは、男生徒が専門家の査定を受けて、他人に危害を及ぼす心配がないとされるまで、登校させないで欲しいと訴えたのだった。「各地で起きた子供たちの集団殺人事件も彼らが発していたかもしれない予兆を無視しないで、学校や家庭が事前にしかるべき措置を施していたた阻止できたかもしれない。裁判に訴えると言う強行手段にでたのは、学校が男生徒を4日間だけ停学にしただけで、ことの重大さを理解していないように思われたからだった 」といっている。

裁判での審理は、6月下旬に始まり、その間、男生徒はサイコロジストの査定を受けることになっているという。

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シニア・プロム・パーティ 7.3.98

スカースデール高校の今年のシニア・プロム パーティは、卒業式翌日の6月27日、ウィンドーズ オン ザ ワールドで行われた。11年生の時に生徒会に選ばれたプロム委員会が前年度のパーティに参加したあと、1年かけて会場探し、飾り付け、チケットなどを準備すると言うこの高校生最後の大イベントは、今年も例年にたがわず、生徒にとって思い出深い一夜となったようだ。

タキシードやイブニング・ドレスで優雅に身を装い、気取って舞踊会に赴く子供たちの姿に自分の高校生の頃を思い出し、新たな感慨にふけるアメリカ人の親は少なくないが、プロムのありようは、社会の動きとともに徐々に変化しているようだ。今年70歳になるバーガーさんに彼女のプロム体験をうかがうと、「私たちの頃は、会場は学校の体育館で今から比べると地味なものだった。とても楽しかったけれど、同伴者さがしだけはプレッシャーだったわね。」と懐かしそうに話して下さった。

彼女の3人の子供たちが高校生だった1960年代後半から70年代は、ベトナムに対する反戦運動、伝統文化に対する若者たちの抵抗などの影響で、スカースデール高のプロムは中止されていたそうで、「プロム代が浮いて助かったわ。」と笑っておられた。最近のように豪華なホテルを借りて、リムジンで出掛けるようになったのは、1980年代の後半からだとか。年ごとに派手さを増していくように見えるプロムも、一方、男女交際におくてな子供たちが同伴者探しで感じるプレッシヤーは昨今共通のようで、相手がみつからず、プロムの参加をあきらめる子供たちは今も少なくないと言う。ただ、バーガーさんの頃と違っているのは、最近では必ずしもペアでいく必要はなく、「スタッグ」(もともとは、社交集会などに女性を同伴しない男性と言う意味に使われた)といって、グループでの参加が可能となったこと。一昔前に比べると、一対一の男女交際が少なくなっているという現在の高校生に「スタッグ」の広がりは自然の傾向のようで、プレッシャー解消の手段としても大いに歓迎されていると言う。

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百歳の誕生日を迎えたホロコースト生存者のペビ・ドイチュさん 7.31.98

今週のスカースデール地方新聞は、同地区在住のペピ・ドイチュさんが、6月30日、百歳の誕生日を家族や友人と祝ったことを大きく報道している。百歳を過ぎた人は現在全米で3万人ほどいるのだそうで、そのこと事態それ程珍しいことではないが、ドイチュさんがホロコースト生存者の一人であること、アメリカの生存者の中では最年長であることが話題になったのだった。

ドイチュさんはトランシルバニア(現在のルーメニア)生まれ。一家は、1944年ナチスによってアウシュビッツやその他の強制収容所にばらばらに送られるが、11か月後に収容所を解放された時は娘のクララさん(現在72歳)を除いて夫や息子をはじめ、4人の弟たちとその家族など、近い親戚だけで37人が殺害されていた。

クララさんは、「死の収容所だったアウシュビッツで二人とも生き延びられたことは、本当にラッキーだった。」としながら、口に尽くせないほどの過酷な状況の中で、それでも望みを失わないでいられたのは母親であるドイチュさんの信仰の厚さと、絶やすことのなかったユーモアに支えられたからだったと語っている。クララさんはイーストチェスター高校で26年教鞭をとったあと、現在は、ホロコーストを言い伝えるために、学校や教会などで無償の講演を続けているが、(私も何回かお話をうかがったことがある。)より多くの人に歴史の事実を知らしめることは、偏見の犠牲となった六百万人の死を無駄にしないために自分に課された責任であると言っている。

クララさんはまた、命をかけて自分を守ってくれた母親を今度は自分が守る番だとしてアメリカに移住し結婚して子供が生まれたあともずっと母親の面倒を見続けていると言う。ご主人も亡くなられ、子供も巣立った今では親子二人きりの生活とか。クララさんの濃やかな愛情に支えられ、百歳で今なお元気な毎日をお過ごしというドイチュさんの様子に心からの拍手を贈りながら、その静かな余生は、全てのユダヤ人を抹消しようと試みたナチスの犯罪に対するこれ以上の報復はないのではないかと、小気味よい思いにかられたものだった。

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サイレント ビジル 8.14.98

スカースデール平和運動団体が主催するサイレント・ビジルが、今年も8月9日、例年どおり駅前のチェース・パ−クで行われた。サイレント・ビジルは、1981年以降、同団体が住民に呼び掛けて毎年原爆記念日前後の土曜日、正午から2時間行わっているもので、広島と長崎の犠牲者を悼み、人類が再び核戦争を起こさないようにとの願いをこめたプラカードを手に無言で行進する。

私は、7年前に団体の創設者であるミッキー・シンセンさんに誘われて以来、毎年ビジルに参加しているが、それは、「いかなる理由にせよ、核の使用は間違いだった、その間違いは再び繰り返されてはならない」とする同団体の活動の趣旨に賛同したからだった。唯一の被爆国からきた者として、同胞に向けられる住民の哀悼の意に無関心でいられないと言う思いもあった。

原爆投下50周年の1995年には、図書館で「サダ子と千羽鶴」の映画を上映したあと、日米住民が一緒に鶴を折りながら、戦争について話しあうと言うイベントを企画した。日米住民の手になる千羽鶴は、スカースデール町長の名で広島市長に手渡されたあと、サダ子像のある平和公園に届けられた。シンセンさんは、日本で放映された「日本テレビ」の番組でその様子を見ながら、「すべてのアメリカ人が原爆を正当化しようとしているのではないことを多くの日本の皆様に知っていただいたことがとても嬉しい」と語っていた。ビジルの最中に、「原爆投下は正しかった。戦争終結を早め、多くのアメリカ人を救ったのだから。」と言うプラカードを掲げてやってくる人は今もいる。昨年は、「ビジルの参加者は、アジア諸国で行った日本の残虐行為を擁護しているようなものだ。彼らは歴史から何も学んでいない。」と言う趣旨の記事を投書した人もいた。

それに対して私はすぐ同団体の活動は歴史から学ぶことが目的のひとつであると反論した。その一方で、アメリカで広島や長崎の犠牲者が悼まれるように、日本でも南京などの犠牲者に対する追悼の日がくることを願わずにはいられない思いがした。

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ティーン ドライビング 8.28.98  

8月12日、ブロンクスリバ−・パークウェイで事故死したジェイスン君のニュースは、多くの住民に深い衝撃と悲しみをもたらした。特にティーンエージの子供たちを持つ親にとってそのニュースは、日頃の心配が現実化されたような思いで、とても人ごととは思えない出来事であったようだ。

ジェイスン君は、この9月からスカースデール高校の11年生になる予定の16才の少年だった。明るくて思いやりがあり、昨年クラスメートのJ君が自殺をした時、学校あげての追悼式を中心になって企画したのは彼だったという。

2週間前に両親から買ってもらったばかりの新車で友人3人を乗せて自宅近くのハイウェイをドライブ中、カーブを切りそこなってガ−ドレールに衝突。バランスを失った車はその反動で通路の反対側の木に激突し大破した。乗客席の3人は幸いにも走行中の他のドライバーに助けだされ、すぐ救急病院に運び込まれて一命を取り留めたが、ジェイスン君はほぼ即死の状態だった。

ナショナル・ハイウェイ・セーフティ・アドミニストレーションの調査によると、米国の若者の死因の第一位は交通事故で、1996年に事故死した15才から20才までのドライバーの数は6、319人となっている。これは一日にすれば約1時間に1人が死亡しているという計算で、そのうち32%はスピードの出し過ぎが原因であるという。  

ジェイスン君の死は、こうした全国的な統計からみると決して珍しい出来事ではない。しかし、彼の人となりを聞いたり、その豊かな将来性を思うにつけちょっとした過信がいかに多くの人を悲しませることになるか気付いていてくれたらと、その避けられたかも知れない事故がいかにも無念に思われてならない。

自分だけは「不死身」であると思いがちな16才という年齢、運転免許の取得をもう少し難しくするか、安全運転のための適切なオリエンテーションをもっと施行する必要があるのではないかと、以前にもまして思われた。

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ポリティカリー・コレクト 9.11.98

先日、スカースデール在住の日本企業の男性、A氏と話をしていたら、氏がスカースデールでの暮らしが快適である理由のひとつとして「家主がユダヤ人でないこと」をあげられたので内心驚いたことがあった。快適な暮らしとユダヤ人との関係が私にはよく分からないが,氏の発言は私に日本で出版された夥しい反ユダヤの本がアメリカで問題になった時のことを思い出させた。

当時私はそうした出版物は、海外の日本人像をも歪めるものとして新聞や雑誌への投書などで訴えたことがある。その後日本での反ユダヤの本は少なくなったが,氏の言葉にいまだに燻っているらしいいユダヤ人に対するいわれなき偏見を感じて気になったのだった。また約50%の住民がユダヤ系と言われているスカースデールのような地域でのこうした発言には氏の隣人との交流のなさがあらわれているようで、それも気になった。

日本企業の海外進出に伴ってニューヨーク郊外には1985年後半から日本人家族が急増した。ウェストチェスターでは、スカースデール、ライ、ハリソンなどが特に日本人の多い地域として知られている。(現在ではその全体数は少なくなっているが。)こうした地域は通勤に便利で環境がよく、教育水準が高くユダヤ人家族が多いと言う点でも共通している。

我が家は、15年前スカースデールに引っ越すまで、ブロンクスのリバデール近くに住んでいたが、当時リバデールを日本人とユダヤ人が多い町として「JJタウン」と呼ぶ人もいた。日本人家族がリバデール周辺を離れ、ウェストチェスターへ北上するようになってからもその傾向は変わっていない。日本人にとって隣人や子供たちの友達の家族、学校関係者がユダヤ系であることはいずこも少なくないのである。

「家主がユダヤ人でない云々」のA氏の発言は、私が同じ日本人ある安心感に由来したのかもしれない。しかし、ニューヨークのような多様文化の中で暮らす者としては、同胞どうしの会話といえど、他者に対しもっと配慮が欲しいという気が した。「ポリティカリ・コレクト」という言葉が日本人にももっと正しく認識される時がきているのではないかとあらためて思った。

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15年目の感慨 9.25.98

三年前の息子に続き、娘もこの6月に高校を卒業したので、15年続いたスカ−スデール学区との関わりに今年で終止符を打つことになった。子供たちがいなくなった「エンプティ・ネスト」の我が家には毎年新学期になるとどっさり届いていた学校からのお知らせもこの9月からはこなくなり、寂しいような、ほっとしたような、不思議な感慨を味わっている。

この15年、私は一貫してPTAや地域活動などに積極的に参加してきたが、スカースデールが1985年頃からニューヨーク郊外で日本人駐在員家族に人気のある居住区の一つとなったことから、活動を通して日本人と関わりを持つことも多かった。その中で目にした問題点などについて、本誌にも「ニューヨークに上陸した日本の教育事情」と題して何回か載せていただいたことがある。

ニューヨーク周辺の日本人家族の急増の様子については、日米のメディアが競ってスカースデールを例にあげた。1988年に、「週刊朝日」がその新年号で特集した、「ニューヨークの田園調布に出現した日本人村」という記事を皮切りに1991年には「ニュ−ヨ−ク・マガジン」と言う雑誌が「ジャパナイング オブ スカ−スデール」という記事を特集するなど、その数をあげればきりがないくらいだ。こうした記事に対して私は、日本人集中区で起きている共通の問題をあたかもスカースデールのような一定学区だけのものとするのは、問題の本質を逸脱させるものとして反論したこともあった。

日本人家族の数はバルブの破壊以降、少しずつ減少しはじめ9月現在のスカースデール学区での子供たちの数は、ピーク時の約三分の一となっている。減少の理由としては、日本企業の人材派遣が減っていることの他に、就学前の子供が増えていること、グリニッチ日本人学校が初等部からの受け入れをはじめたことで、ライやグリニッチ周辺に住む家族が増えていることなどがあるようだ。

日本人の一定学区への集中が起こす問題について、送り出す側に考えて欲しいことについて何度訴えても全く見られなかった変化が、今バルブ破壊という現象によって自然に解決に向かっているようにで皮肉な思いをしている。

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STEP 10.9.98

スカースデールのSTEPプログラムが今年で32年を迎える。STEPというのは、南部の黒人の高校生を大学進学までの2年間、地域に招待するという非営利団体の活動で、正式にはスチューデント・トランスファー・エジュケーション・プランと呼ばれる。黒人の公民権運動の盛んだった1960年代、向学心があって経済的に恵まれない子供たちに機会を与えようと北部の裕福なコミュニティが企画したもので、当初はニューヨークやニューイングランドで30ほどのコミュニティがこのプログラムを取り入れていた。しかし、時代の流れと共に段々消滅していき、現在なおこのプログラムを続けているのはスカースデールだけとなっている。

STEPスチュ−デントにかかる2年間の費用は、交通費や衣類代などを含めてすべて住民が構成する役員の資金集めで賄う。私も5年前から役員の一人として活動に参加させていただいているが、生徒たちの歓迎パーティ、卒業パーティを開いたり、ホストファミリーの負担にならないよう、いろいろな役目を分担して支援するのも仕事の一環だ。

この9月からスカースデール校の11年生に編入したブランディ・クックスさんは、ミシシッピー州のビックスバーグ出身。12才の頃から、家計を助けるために学業の傍らメイドや給仕などをしていたというブランディさんは、「将来は医者になりたい。ビックスバーグでは2年制の大学に進学出来るかどうかもおぼつかなかったので、STEPの存在は本当に思いがけなかった。」と語っている。16才で家を離れるのは辛かったに違いないが、これまでのSTEPスチューデントのありようをみれば、彼女も多分希望する大学へ入って、将来の夢に向かって邁進することだろう。

STEPの活動について一部には「体裁主義」、「公民権運動は終わった、活動は時代にそぐわないのでは」などと言った声もある。また、どうしても適応出来ず、途中で帰ってしまった生徒も何人かいると聞く。その一方で、小規模と言え若者の夢がかなえられる場所や機会を提供していること、32年も著名な大学に南部の生徒を送り出していることなどで、その意義を高く評価する人は多い。

STEPは、時代の変遷に応えて、来年度から南部の黒人だけではなく、他のマイノリティにもその手が差し延べられることになった。

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エリック・ロスチャイルド先生のこと 10.23.98

去る十月四日、スカースデール・ゴルフクラブで六月に教職を引退されたエリック・ロスチャイルイド先生を囲むパーティが開かれた。先生は、ハーバード大学を卒業された後、母校のスカースデール高校で36年にわたり「アメリカ史」を教えられた方で、優秀な教師としてだけでなく、地域活動に熱心なことでもよく知られている。(前号でお伝えした「STEP」の成功も先生の功績による所が大きい。)先生のお母様もかってスカースデール教育委員会のメンバーとして活躍されていたことがあり、まだご健在なこともあって、会場には当時からの歴代の教育長や学校長をはじめ、先生の同僚や教え子、父母、地域活動の仲間たちなど、老若男女あわせて三百近くの人たちがが駆けつけた。
        
パーティでは、何人かの代表がユーモアを交えながら先生にまつわるそれぞれのエピードを披露した。それによると先生が生徒から絶大な人望を得ていたのは、その暖かい人柄もさることながら、教え方の巧みさにあったようだ。先生の授業では教科書はほとんど使われず、それぞれが集めた資料を基に討論形式ですすめられることが多かったという。その方法が生徒の学習意欲を高め、考えをまとめるのに役だったとしながら、「自分で教えようとせず、生徒の意見ばかり聞いていたのは本当は先生が歴史を知らなかったからに違いない。」と言って会場を笑いの渦にした人がいた。興奮すると机の上に飛び乗って熱弁をふるったと言う先生に対しては、その活気ある授業が生徒を引き付けたとする一方で、「今だから言えるけれど、先生のはしゃいでいる様子は落ち着きのない九才児のようだった。」と言って先生を苦笑させた人もいた。 
                                                                                                                                              
「APアメリカン・ヒストリー」で受け持っていただいた私の娘もよく「先生に教わるまで、歴史の授業がこんなに面白いなんて知らなかった」と言っていたが、様々な専門の分野で活躍する教え子たちが先生にうけた影響の大きさについて話すのを聞きながら、あらためて先生の偉大さに、そしてアメリカの学校のありかたに感動した。貧富による教育の格差など、アメリカの公立学校が抱えている問題は全体的には決して少なくないが、ロスチャイルド先生のようなユニークな教師を生み出す柔軟なシステムが一方で、国際的に通用する強いリーダーを育てる要素となっているのは疑いのない事実だと思われたからだった。

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プレジュディス・ウェアネス・サミット 11.6.98

10月9日、パーチェスのニューヨーク州立大学で、ウェストチェスター周辺の8年生の子供たちを対象に「プレジュディス・アウェアネス・サミット」と言う集会が開かれた。「偏見をなくし、お互いの違いを理解しあう」ことを目的に、「ジューイッシ・ウィメン・インターナショナル」と言う組織が全国的に企画しているもので、昨年に次いで2回目となる今回のウェストチェスターの集会にはスカースデールの16名の子供たちを含む 200名ほどの8年生と教育関係者が参加した。

集会はまず、元校長で、現在では今回のようなプログラムにアドバイザーとして支援しておられるレオン・バス さんの講演からはじまった。バスさんは、南部の黒人として、様々な差別をうけながら成長したこと、第二次大戦中兵役でヨーロッパへ行き、ユダヤ人収容所で、死体焼却場や拷問室、辛くも死を逃れた人たちの幽霊のような姿などをみて、偏見のもたらす恐ろしさに改めて憤りを感じたことなどを話された。その後、偏見とたたかうためには一人一人が立ち上がる他はないとして、「他の人と何かが違うというだけで苛めたり、除け者にしたりしている人たちを見たら、例え小さな石ころでもさざ波を立たせることは出来る、ことを忘れないで、そうした行為を阻止するだけの勇気を持とう」と諭された。

子供たちはその後、幾つかのグループに分かれ、「私は英語が話せません」とか「私の肌の色はあなたと違う」、「僕は勉強の虫」などを書いた紙を額にはって、相手の反応について話しあったり、それぞれの経験を語り合い、その結果をグループ毎に発表した。子供たちはそれぞれの学校でも今回学んだことについて報告することになっていると言う。 

アドバイザーとして参加したスカースデール中学校の教師の一人、ランボーンさんは、「偏見にもいろいろな形があることを学んだこと、偏見をなくすために個人的にも何かは出来ることを学んだことなど、子供たちにとって非常に意義のある一日だったと思う。」と語っている。

日本でも「苛め」が社会問題になって久しいが、新聞、雑誌で読んだりする限り、問題はいまだに苛められる方にその要素があるとされている場合が多いように思う。アメリカの学校や地域が取り上げている偏見をなくための様々なプログラムは、日本の苛めやその対策を考えていく上でに参考になることが少なくないと言う気がする。

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リージェンツ・イグザム 11.20.98

ニューヨーク州教育省は2年前、高校卒業の資格を取得するためには、1999年度以降、すべての生徒が新しいリージェンツ・イグザム(州試験)に合格しなければならないと言う決定を各学区に通達した。これまでにそれぞれの学区が定めていた卒業規定を統一することで、州全体の教育水準をあげることが目的であると言う。初年度は英語のみ、2年目にマス、3年目にソーシャル・スタディーズ、サイエンスが加わり、現在9年生の生徒が卒業する年には主要4科目がテストの対象となる。

ニューヨーク・タイムス、ウェストチェスター版は、11月8日号でこうした教育省の決定に従うため、リージェンツ・イグザムのためのコースを設けたり、放課後や土曜日に特別コースを設置するなど様々な方法で生徒の指導にあたっているそれぞれの学区の様子を紹介している。それによると、テストの施行が州のスタンダードを高めることは確かだとしながら、地域による教育格差の違いが大きいことからそのありかたを疑問視する声も少なくない。

例えばマウントバーノンやヨンカース、ニュー・ロシェルなど、教育水準が必ずしも高いとは言えない学区では、準備に時間を費やしても実際のテストが難しすぎて卒業出来ない生徒が増えるのではないかとの心配があるのに対し、チャパカやスカースデールなどの学区には、リージェント・イグザムの準備のためのコースが学校の水準を下げてしまうという懸念があると言った具合。

一方、2日間で6時間に及ぶと言う英語のテストは、読解力、文章力を必要とする内容のものが多いため、英語を母国語としない生徒には厳しいテストになるようで、スカースデール学区の副教育長、スプレイグさんは、インタビューの中で、「日本人の生徒には大変かも知れない。」と語っている。

これについて、スカースデール高校のディーン の一人、メンデロウィッツ先生にうかがうと、「スカースデールでは、ほぼ95%の生徒は問題なくテストに合格すると思われている。心配なのはあとの5%(日本人を含む)だが、そうした生徒に対してはそれぞれのニーズに応じて、指導を強化している」と言う返事だった。

ニューヨーク教育省の高校卒業資格に対する新しい試みは、多くの学区や生徒、その親たちにに様々な戸惑いを与えながら施行されることになるようだ。

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60年を迎える水晶の夜 12.4.98

11月9日は「水晶の夜」と呼ばれ、ドイツの「ユダヤ人迫害」が表面化し、ヨーロッパのユダヤ人がホロコーストへの道を辿るに至ったきっかけの日として知られている。 発端となったのは、1938年、11月7日、両親を不当に逮捕されたポーランド系のユダヤ青年がパリのドイツ大使館員を狙撃した事件。2日後に大使館員が死亡すると、ドイヤやオーストラリアで待ち構えていたように一網打尽のユダヤ人の逮捕がはじまり、2日間に及ぶ暴動で、シネゴーグやユダヤ人経営の銀行や商店が至る所で破壊された。 

「水晶の夜」というのは、壊れたガラスが月夜にきらきらと輝いて水晶のように美しかったことから、破壊した当事者であるナチスが自分たちの行動を冗談めかして名付けたものと言う。ドイツ語では、「クリスタル・ナハト」と呼ばれる。

今年で60年を迎えた「水晶の夜」は、11月9日前後、各地のユダヤ教会で、それぞれの追悼が行われた。私も、我が家が属しているシネゴーグで、追悼に参列し、その際、当時ドイツに住んでいたと言うバナード・バッシキンさんお話を伺った。バッシキンさんは当時12才。一家は郊外に住んでいて、たまたまその夜は暴動を逃れたものの、おびただしいガラスの破片を目にした時の血の凍るような恐怖はいまだに忘れれられないと言う。ユダヤ人と言う理由で既に大学教授の職を追われていた彼の父親は、それを見てドイツに自分たちの将来がないことをはっきり悟り、その3ヶ月後、一家を引き連れてアメリカに移住する。

バッシキンさんは、あの時点で一家がドイツを離れたのは幸運だったとしながら、その後におきた「ホロコースト」の犠牲者を考えると、生存した者として常に「罪の意識」を感じないではいられないと語っている。

「水晶の夜」が語り続けなければならないのは、偏見がユダヤだけの問題ではなくすべての人にあてはまるからだとバッシキンさんは言う。「水晶の夜」のような出来事が、早い時点で対処されていたら、「ホロコースト」は起きなかったかも知れないとして、偏見を放置することがいかに不幸な結果を生み出すか、多くの人に考えて欲しいとバッキシンさんは訴えていた。

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