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ニューヨーク郊外だより(3) 2000
忘れない勇気 忘れない勇気 1.14.2000
去る11月19日、ホワイトプレインズのクラウンプラザで徳留絹枝さんの講演会があった。徳留さんは、日本語についで最近英語でも「忘れない勇気」という題でホロコーストに関する本を出版したトーレンス在住のジャーナリスト。彼女とは投稿記事がきっかけで、10年来文通を続けている。今回の講演は、アメリカン・ジューイッシ・コミッティ(AJC)の招待で実現した。
徳留さんは、現在、南京虐殺について独自の立場から調査をすすめている。このことで新聞などに記事を書くと、日本人から「自分の国のことを悪く書くのはやめろ」とか「何年も前のことを蒸しかえすな」といったいやがらせの電話や手紙がくることがあるという。
さて、「週間ポスト」(小学館)が昨年の10月15日号で出した、「『長銀』経営破綻の背景に『ユダヤ資本』」という記事がその後内外の批判をあび、またもや記事の撤回、謝罪という結末を迎えた。数年前にも同じような理由で「マルコポーロ」という月刊誌が廃刊したが、売れるからという理由で安易に繰り返される大手出版社による「他民族の中傷」にまたぞろと怒りを超えて情けない思いに駆られた。
「週間ポスト」は、その後(11月29日号)、「日本人のユダヤ偏見」と題して4人のユダヤ人の意見を載せている。その中の一人、オックスフォード大学日本代表のデービッド・モーリスさんは、「日本でユダヤ陰謀説」がもてはやされるのは、南京虐殺などをきちんと後世に伝えようとしない文部省とそれをよしとしているメディアのありかたに要因がある」といっている。
新しい世紀には、過去への清算をきちんと出来る「忘れない勇気」が求められているのではなかろうか。
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ヒューマン・リレーションズ
1.28.2000
昨年の大晦日から元旦にかけてABCテレビが放映した世界各国の世紀のはじまりはとても面白かった。画面に映し出される様々な国の新しい世紀の様子は、居ながらにして世界一周の気分を満喫させたし、コミュニケーションの発達で相互理解が深まるとしたら、いつの日か世界中から戦争がなくなるのも夢ではないかもしれないという思いさえ抱かせたものだった。
相互理解といえば、私は今年、スカースデール・ビレッジの「ヒューマン・リレーションズ・アドバイザリー・コミッティ」で委員長をつとめている。これは、村内の人的、人種間の問題に対して、住民の意見を聞きながら必要に応じてメイヤーや議会に助言をするという諮問委員会で、定期的に会合を開きいて様々な問題などについて話し合う。
委員のうちわけは、合計8人のうち、日本人、韓国人、ラテン系、アフリカ系アメリカ人、白人4人で、これは、白人だけで占められていた8年前までに較べると信じられない変化であるが、文化の多様性がもたらす建設的な面が住民に理解されはじめていることが大きな要因であるように思う。
スカースデールでは学校の方も、以前は、「インターナショナル・ファミリー」と呼んでいた外国人の家族を、「文化背景の多様性は学区の財産」とする教育委員会の姿勢を受けて、現在では「マルティ・カルチャラル・ファミリー」という名称に変えている。
アメリカは、人種問題に関してはまだ解決するべき多くの課題を抱えてはいるが、少しずつながら年々よい方向に向かっているのは間違いないという気がする。各々の国であけていく新世紀の様子をテレビでみながら世界の将来に対しても何だか希望がもてそうな気がしたのは、変わりゆくアメリカを肌で感じているからかもしれない。
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チャパカの街とクリントン邸 2.11.2000
チャパカは、マンハッタンから電車で約1時間ほど北にある閑静な住宅街だ。この街は、江崎真佐子さんの「ニューヨークお茶の間かわら版」などの一連の著書などで日本人には割と知られている一面があるが、どちらかと言えばこれまで、教育水準の高い裕福な知識人の街としてひっそりたたずんでいるという趣があった。
所が、クリントン夫妻がこの街をニューヨークの住まいに定めたことから、今この静かな住宅街にちょっとした異変が起きている。夫妻を守るためのものものしい警護体制で自宅周辺はシックレート・サービスのコマンド・センターとなり、近くの高速は、警備や物見遊山の車でしばしば渋滞を起こすなど、突然の喧騒に戸惑いを感じている住民は少なくない。知人のキャッシー・ミラーさんは、「大きな声ではいえないけれど、はっきり言って迷惑と感じている人は多い」と言っていた。
ヒラリーさんは、この街で家を買う前にスカースデールやニューロシェル、ライなどの家もみて回っている。スカースデールではかなり気にいった所があったようで、買うかどうか検討しているというニュースがローカル新聞に出たことがあった。するとその翌週の投書欄に住民の一人から「周辺の交通渋滞は必死。絶対にこないで欲しい」という意味の投書が載った。ヘラリーさんがスカースデールの家を断念したのは、まさかこの投書が原因ではないだろうけれど、件の家が大統領夫妻に購入されなかったことで安堵した周辺の住民は少なくなかったと聞く。時の大統領ともなると家探しも楽ではないことを目のあたりにした思いがしたものだった。
さて、ヒラリーさんは、こうしてニューヨークの住民にはなったが、上院選での闘いではなお、一部で「カーペット・バガー」(渡り政治屋)と呼ばれ続けるだろう。州民に真の意味でニューヨーク代表として認められるにはまだその道のりは長いようだ。
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怪しい人 2.25.2000
「スカースデール・インクアイアラー」紙が1月4日で掲載したポリス・レポートの一部が今村内で物議を醸し出している。記事の内容は、「一住民から留守宅の近所の家に怪しい黒人男性が立っている」として通報があり、事情を調べた所、その人は、ニューヨーク市消費者団体からの召喚状を携えてその家を訪問しようとしていたことが分かった」と言うもの。
これに対し、翌週の投書欄で、「近所の家の前に黒人が立っているというだけでポリスに通報するというのはあきらかに人種差別。しかも、これを普通のレポートとして新聞に掲載するポリスや新聞社のありかたも無神経だ。」という主旨の声が寄せられた。すると次の週には、スカースデール高校からミネソタのカールトン大学に進んだ3人の生徒から、「かってクラスメートだった黒人の何人かは、家の近くを歩いていただけで警察の尋問を受けたことがある」とか、「運転中にしばしば停車を命じられて車内を物色された」などの例をあげて、レポートは、明らかにポリスや住民の人種偏見をあらわすもの」という投書が届く。
こうした憤慨の声は、他にも多く警察や新聞社に寄せられた様で、今週のインクアイアラーは、社説で「黒人が近所の家の呼び鈴を押していたというだけでなぜ「怪しい人」として警察に知らせなければならなかったのか、その理由は誰にも分からないが、記事に対する反応の大きさからみても住民の大半は通報者とその報道の仕方に異議を持っていることが明らか」と書いている。
2月は、ブラック・ヒストリー・マンスとして全国の学校で子供たちがアフリカ系アメリカ人がアメリカ史に残した功績などを学んでいる。その一方で、犯人と間違われて41発もの銃弾をあびて死亡したウェスト・アフリカ人のアマドー・ディアロさんは言うにおよばず、きちんとした服装で玄関の前に立っていただけで警察に通報された今回の男性の例をみても、この社会は黒人男性にとってまだまだ非常に生きにくい所であるように思える。
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リーグ オブ ウィメン ボーターズ 3.10.2000
「リーグ オブ ウィメン ボーターズ」(LWV)と言う団体がある。リーグという言葉の響から、野球やサッカーのチームを思い浮かべがちだが、婦人参政権運動のリーダーのひとりだったキャリー・チャップマン・キャッツさんが、女性の積極的な政治参加をめざして、1920年に設立した無政党のボランティア政治組織である。設立後80年、全米で1000以上に広がった支部のメンバーは現在では男性も交えて、各地域で様々な活動を行っている。
リーグの活動で特に目立つのは、地方、全国の規模を問わず、大統領選挙中に繰り広げられるメンバーの活躍だ。候補者に討論の場を与えたり、公約を正確な調査で分析したり、有権者に投票の意義を訴えたりと、その活躍は多岐にわたる。大統領選の討論を主催することもあるため、実際の活動は知らなくてもテレビなどで名前にだけは馴染みがあるという人も少なくない。
スカースデールでは、1921年に支部が設立されている以来、市民の政治参加を奨励する活動の他、環境保護問題、青少年の非行問題など、地域に密着した様々な問題に積極的に取り組み、その熱心な活動は住民に高く評価されている。
今回は、3月上旬の10日間、グッゲンハイム財団などの基金で、応募にこたえて集まった300人程の参加者による、「ニューヨーク州の犯罪とその法律のありかた」について、討論会を予定している。8人から10人のグループに分かれた参加者は各々に定められた場所で、現行の法律の問題点などについて2時間づつ、3日間討議するのである。
その後、結果をまとめアルバニー州政府に報告。「リーグ」は、問題点・司法制度の見直しを政府に訴えるひとつの形としてこうしたプログラムを企画したという。私も「リーグ」・メンバーの一人として、話し合いの進行係を努めることになっているが、政治参加にも様々な形があることが学べてとても興味深い。
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ミリオンマーム・マーチ
3.24.2000
6歳の少年が同級生の少女を射殺した事件をきっかけに再び銃規制強化に取り組んでいるクリントン大統領と、NRA(全米ライフル協会)の間にあらたな激しい対立が続いている。昨年、コロンバイン高校乱射事件のあと上院を通過した「購入者の前歴調査と子供が使用出来ないような制御装置の設置」などの法案が下院で否決されが、それは「NRAが立法を妨害したため」と糾弾する大統領に対して、NRAは、チャールトン・ヘストン会長がテレビ広告で「大統領は嘘つき」と言ったり、ウェイン・ラピエル副会長が、インタビューで、「大統領は、政治に利用するために今後も銃犯罪で死者がる増えるのを待っている」と応えたりなど、「そこまで言うか」と思われるくらいの強い言葉で反論している。
こうした政治の動きに対して、子供たちのためにこれ以上は待てないとして、全米の母親に呼びかけて、5月14日、首都ワシントンで「ミリオンマーム・マーチ」を企画している人たちがいる。銃の危険性と規制法案強化の必要性を全国の母親の立場から訴えるのだという。発案者のドナ・トーマセスさんは、「昨年8月、ニュージャージーのグラナダヒル・ナーサリー・スクールの子供たちが犯人から逃れるために一列になって誘導される姿をテレビでみて、同じ年ごろの子供を持つ親として何かしないではいられない思いに駆られ、翌日この企画を思い立った」といっている。
スカースデール・シナゴーグを中心にウェストチェスターで企画の推進にあたっているエリス・リッチマンさんは、現在各州のコーディネーターがPTAや地方自治体、教会などに呼びかけて参加者を募る一方、各々が手分けをしてバスや飛行機の手配をしたりで忙しいと、はじめての企画に興奮ぎみの様子だった。
「ミリオンマーム・マーチ」委員会は、母親が手をつなげば銃規制強化は夢ではないとして多くの人々の参加を呼びかけているが、NRAは今の所、この動きを歯牙にもかけていないようだ。
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時代の変遷 4.7.2000
昨年3月のスカースデール議員選挙では、シティズン・パーティ以外の候補者が当選して話題になった。従来、各町内から選ばれた指名委員が議員を推薦し、最終的に住民投票にかけるという方法が取られていたので、この町では長年のボランティアで地域内の知名度が高いことが議員に選ばれる不可欠な要素だった。ところが、こうした選挙のありかたは、もはや時代にそぐわないとして、知名度に関係なく様々な公約を掲げて選挙運動を展開したボーターズ・パーティ候補が当選したことで、地域活動に熱心な住民の中にはショックを受けた人も少なくなかったのである。
そこで今年の選挙選は、そうした昨年の異変をうけてシティズン・パーティが多くの住民を動員して巻き返しをはかり、新聞などを通してキャンペーンをはった。その結果、3人の候補者全員が大差で対抗馬を破り、伝統ある政党の面目を保ったのだった。選挙前日には私もシティズン・パーティに頼まれて、多くの人に投票依頼の電話をかけ捲ったが、しばしば周囲の人たちの真剣さに圧倒されるような思いがした。
ボーターズ・パーティの出現は、町のありかたが変わることを危惧する人たちを積極的に選挙運動に駆り立てたが、一方、シティズンパーティのありかた、つまり一部の人たちだけが関与しているようにみえる候補者の選び方、に満足していない人たちが少なくないことも明からにした。ボーターズ・パーティは、そうした人たちの声もくみ上げてこれからも毎年新しい候補者をたてると言っているので、スカースデール議会選は、もはや対抗馬のない従来の方法で議員を選ぶことはないだろう。70余年続いた一党政治に幕が閉じられることになったことに時代の変遷を感じている。変遷といえば、今回の選挙では、今後の選挙が3月ではなく、11月に変更されることも住民投票にかけられたがこちらの方は、従来通りと言う結果になった。
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市民集会 4.21.2000
スカースデール議会の諮問委員会のひとつ、「ヒューマン・リレーションズ」委員会は、4月6日、公立図書館で「スカースデール住民の多様性、その今昔」というタイトルの市民集会を主催した。集会が始まるにあたって私は代表として、「8年前までは、一人のマイノリティもいなかったこの委員会が現在様々な人種で占められていることは、住民の意識の変化をあらわすもので、こうした集会がお互いの一層の理解に役立つことを望む」という意味の挨拶をした。
次に歴史家で中学校教師のアービン・スローンがさんが、歴史的観点から、スカースデールの多様性について講演した。スローンは、もともとWASP(アングロサクソン系白人)の町であったスカースデールに1920年代から増えはじめたカソリック系、60年に急増したユダヤ系に対して、住民がどんな形で排斥したか、例をあげて話しをすすめながら、「先住者の受けた苦しみはもはや誰にも繰り返させてはならない」と、強調した
次いで行われたパネル・ディスカッションでは、6人のペネラーの一人でケニア人の高校生、アグンダ・オキオさんが、「多数派となった人たちは少数派の苦しみを忘れている」として一般の生徒たちの黒人生徒に対する理解のなさを訴えた。会場から意見を述べた彼女の母親は、「私は、ハーバードの大学院で博士号を取得しているが、スカースデールでタクシーに乗るとよくメイドかと聞かれるし、家探しも楽ではなかった」と言って参加者にため息をつかせた。
委員会の一人で、西インド諸島系黒人のエイモリーさんは、「この町が黒人にとって住みやすい町でないのは明らか。より多くの人たちが自分たちの問題として直視しない限り、今後黒人がこの町に増えることはないだろう。」と、意見を述べた。彼女は、次期委員長を引き受け、住民の意識をより高めるために今後もこうしたプログラムを続けていくといっている。
今回の企画は、「
ヒューマン リレーションズ」としては始めての試みであったが、最後に集会を締めくくったスカースデール議会のアン・ガルバニ議員の話しや参加者の反応から、意義あるものとして受け止められた様に思う。集会の様子は、ケーグルテレビでも数日間にわたって放映された。
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スカースデール・ボール
5.5.2000
4月13日、ホワイト・プレインズのクラウン・プラザ・ホテルで行われたスカースデール・ボール・ディナーに出席した。スカースデール・ボールというのは、地域に貢献した人の中から一年に一人だけを選んで贈られる銀杯で、その授与式は、1943年以降、町の恒例の春の行事となっている。
今年の受賞者は、現在スカースデール歴史保存協会で会長を勤めているエダ・ニューハウスさん。1952年に一家でスカースデールに引っ越して以来、PTAをかわぎりに地域の様々なボランティア機関で積極的にの活動をしたほか、1700年代に建てられ、殆ど朽ちかけていた農家を現在の歴史保存協会にしあげるなどの手腕が認められた。
授与式では、エダさんの友人や、ボランティアで一緒に仕事をした人たち、息子さん二人が代表で、「ノー」とは言わせない彼女の強引さや、その有能な仕事ぶりが周囲に及ぼす影響などをおもしろおかしく披露して、殆どは何らかの活動を通して彼女の一面を知っている300人余の参加者を笑わせていた。
最後に挨拶にたったエダさんは、48年に及ぶスカースデールでのボランティア活動の経緯を語り、その間一緒に仕事をした人たちにお礼を述べた。エダさんはまた、「1973年まで受賞者の妻でも女性は授与式に参加出来ず、女性に始めて銀杯が授与されたのは1981年になってからだった」などのエピソードを交えて、町議員の経験のない自分が受賞の対象になったことにも驚きと名誉を感じると語った。
70才を過ぎて、まだ若々しく、エネルギッシュに活動を続けるエダさんの話しを聞きながら、あらためて年齢に関係なく才能や趣味が人々のために生かせるアメリカ社会のすばらしさを感じた。
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ウェストチェスターにやってきた「ゲゲゲの鬼太郎 5.19.2000
5月10日、パーチェス・ニューヨーク州立大学のパフォーミング・アートセンタで、「ゲゲゲの鬼太郎」の人形劇が上演された。「ひょっこりひょうたん島」などの「ひとみ座」がフィラデルフィア、シアトル、トロントなどで行われる国際児童フェスティバルの参加の合間をぬってにウェストチェスターで公演したので、宮腰悦子さんの「児童文化の会」と私どもの組織、ジャパン・アメリカ・コミュニティ・アウトリーチ(JACO)が共催した。
「ゲゲゲの鬼太郎」と仲間たちが、猛毒のガスを発生する「悪魔の木」を手にいれた悪い妖怪や人間から人類を守るというストーリーの展開は、奇抜で想像力溢れる舞台装置、ユーモラスでテンポの早い演出、分かりやすい英語で演じられたこともあり、会場をほぼ埋め尽くした日米の子供たちをいたく興奮させたようだ。どの子に感想を聞いても一様に上気した顔で「面白かった」を連発していた。黒子を使って人形を動かすやりかたや、人形たちの喜怒哀楽の表現、からくり仕掛けなどは、大人も十分楽しめる演出になっていて、観客の一人で、小学校教師のアディ・スタインさんは、「日本文化の真髄にふれた気がする」と言っていた。
アメリカ生活も30年近くなった私には、「ゲゲゲの鬼太郎」は、漫画にもアニメにもほとんど馴染みがなく、「妖怪」に対するイメージも何となくおどろおどろしたものがあった。それで、上演前までは、プロデューサーの石川嘉輝さんのお言葉を借りると、『心』のふるさとの豊かさを伝えたい」とする劇団の主旨がアメリカ生まれの日本人の子供たちやアメリカ人によくわかるのかなと言う一抹の不安がどこかにあったことも事実。実際にはその危惧は全くの杞憂に過ぎず、伝承日本の伝承文化のすばらしさとよく出来た作品というのは、国や文化の違いを超えて万人の心に訴えるものがあることをあらためて感じた。
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「ミリオン・マーム・マーチ」に参加して
6.2.2000
5月14日、首都ワシントンで開催されたミリオン・マーム・マーチに参加した。周辺地域の人たちと朝5時半にスカースデール・シネゴーグを貸切バスで出発、11時頃グリーンベルト駅でバスを降りたあと、メトロで国会議事堂前の広場にむかう。
主催者の発表によれば、マーチの参加者は、総勢約75万人。メトロも通りも、「銃による子供の犠牲はもうたくさん」とか、「銃規制に無関心な政治家は次の選挙で議会から追い出そう」と書いたティーシャツを着たり、プラカードを手に全国から集まった母親たちやその家族の熱気でむせるようだった。
会場では、ロージー・オダネルさんの挨拶のあと、ブレディー夫妻(ご主人は、レーガン元大統領の補佐官で大統領に向けて発砲された銃をうけて身体障害者になった人。ブレディ法案の提唱者。)や犠牲者の家族が次々に銃規制強化の必要性を訴えた。
日本からやってきた服部美恵子さんは、息子の剛丈君が、ルイジアナで銃殺されたと、日米で170万人分の署名運動を行ったこと(運動は、ブレディ法案に結びつくきっかけともなった。)などを話し、マーチを強い法案につなげようと力強く呼びかけた。
集会の終了後はまたグリーンフィールドからバスに乗り込み、深夜11時半に出発地のシネガーグに到着。長い一日だったが、目的を同じくする人たちに囲まれて今度こそ何かが大きく変わるのではないかと言う思いに駆られた。ただ、銃保持は憲法で保証された権利として、同じ場所で独自のデモを行っていた「セコンド・アメンドメント・シスターズ」の人たちのように、母親といえど、銃で自分を守るべきと考えている人たちは少なくないし、NRA(全米ライフル協会)が、その後様々な方法で強力な巻き返しをはかっているしで、銃規制が実際に立法化されるまでにはなお長い道のりが必要のようだ。闘いは始まったばかりと言う気がする。
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核兵器の終結
6.16.2000
5月25日夜、スカースデールのフレンズ・ミーティング・ハウスで、ウェストチェスター周辺の6つの平和団体共催による、「核兵器を今すぐ終結させよう」と題する集会が開かれた。
フレンズ・ミーティング・ハウスは、クエーカー教徒の人たちが礼拝や集会に使用するために作った施設。「反戦」で知られるクエーカー教徒の長く静かな運動の歴史は各地のミーティング・ハウスを拠点にして押し進められてきたと聞く。今回の共催団体にもクエーカーの人たちが目だっていた。
スカースデールでの集会は、国連で開かれた全世界の被爆者代表による「ミレニアム・フォーラム」に出席した人たちの一部を招待して行われたもの。広島で被爆した日本人二人と韓国人、ユタ州の核実験で被害にあった人の4人が各々自らの体験を語った。
ユタ州からやって来たクラウディア・ピータソンさんは、核実験の影響で父親、舅、妹、3才の娘をあいつで癌でなくしたことを話し、核の恐ろしさに無知であることがいかに危険なことかを涙ながらに訴えた。広島で被爆した沢田昭二さん(現名古屋大学名誉教授)は、崩れ落ちた家屋の下敷きになって苦しむ母親を救い出すことが出来なかった無念さや、その後の悲惨な経験を淡々と話しながら、きのこ雲の下で親子が互いの名を呼びあって別れなければならないような状況は再び繰り返されるべきではないと結んだ。
韓国から強制的に日本に連れてこられ、広島で被爆したチョイ・イルチュルさんは、国籍がなかったため日本では何の経済援助も受けられず、故国では敵国人扱いされて無視された同胞の二重,三重の苦しみを訴えて、今なお果たされていない韓国人被爆者に対する日本政府の責任を問いかけていた。
広島、長崎から既に55年の歳月が流れたが、核の脅威と闘うより多くの人たちとの出会いを通じて、あらためて個々のなすべきことについて考えさせられた。
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14人の「バット・ミツバ」 7.7.2000
6月2日、スカースデール・シナゴーグでバット・ミツバの式を行った。私の他には13人の女性が一緒だったので正確には、バノート(バットとの複数)ミツバである。
ユダヤ教では男子は13才、女子が12才(実際には男子と同じように13才で式を行うことが多い)になると各々にバール(息子)、バット(娘、バスと発音することもある)という儀式を行う。
この年齢になるとユダヤ社会で大人として認められ、「ミニアン」(10人以上の大人が集まれば、ラビがいなくても祈りの集会を開くことが出来る。)の一人になれる。その意味で、13才の誕生日は、ユダヤ人の子供たちにとって式やパーティをしなくても、記念すべき大切な日とされる。
ユダヤ教は宗派によって戒律、習慣などが違い、一概には言えないことが多いが、ユダヤ人社会が宗教的にはいろいろな面で男性優位の社会あった点では共通している。
私の属しているスカースデール・シネゴーグは、改革派でミニアンには女子も参加出来るが、正統派のように今だに男性だけにしか許されない所もある。女子がバット・ミツバの式やパーティを行うようになったのは、改革派でさえここ20年ほどのことで、それ以前に12、3才を迎えた人はしていない人たちが多い。
スカースデール・ シナゴーグでは、そうした人たちのためにユダヤ教をより理解するための大人のプログラムを設けている。そこで、私はユダヤ教に改宗したあと、他の13人のユダヤ人女性と一緒にこの日のために2年間ユダヤ教やヘブライ語を学んだのだった。
各々に職業を持って、社会的に活躍している人たちとの2年間の勉強は、とても教えられることが多く、楽しかった。本当の意味の勉強はこれからだが、ヘブライ語でトラー(聖典)の一部を朗唱しながら、夫や子供たちの経た道を自分も辿っていることに限りない喜びを感じた。
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「只春の夜の夢のごとし」
7.21.2000
スカースデール学区は、6月15日の住民投票で,
5880万ドルの学校債を発行することを決めた。近年の児童数急増にともなって今後十年で中学校は現在の44%、高校は38%増えるとみられており、各学校の大幅な建て増しが必要になったためだ。
過去10年では最高となった今年の予算案は、例年以上の増税につながることもあって、学齢の子供のいない人たちや年配者には反対の声も少なくない。しかし、「学区が誇ってきた教育水準をこれからの子供たちのためにも」とする教育委員会やPTAの活発な呼びかけで、結局は三対一で可決された。
スカースデールのここ数年の生徒数急増は、アメリカの景気に起因する所が大きい。この学区では従来、高い家屋税を敬遠して子供たちが高校を卒業するとすぐ他の地域へ移っていく人たちが多かったが、好景気による売り手市場は、借家にしていた人たちや引っ越しをためらっていた人たちにも家を手放すことを決心させ、人口の入れ替わりに拍車をかけたのだった。
一方、売り手市場で借家が少なくなったことは、企業の縮小や撤退でそれでなくても減少している日本人家族をより入りにくくさせている。1980年代の後半から90年代の前半にかけて、経済成長の波に乗って、雨後のたけのこの様に急増した日本人家族を思うと昔日の感がある。その頃の日本企業といえば、アメリカの各地で土地や建物を買い漁るだけでなく、社員の社宅として一軒屋を購入した所も少なくなかった。そのはぶりのよさは、「日本人が地価をつりあげている」と言われたり、「ニューヨーク・マガジン」と言う雑誌など、「日本化するスカースデール」という特集を組んだほどだった。
大幅な増築に湧くスカースデールをみていると、かってこの地で目にした日本企業の隆盛の様子が、「平家物語」の一節を借りれば、それこそ、「只春の夜の夢のごとく」思い返される。
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ホロコースト記念館 8.4.2000
スカースデール平和団体は、今年も8月5日(土)正午から2時まで駅前のチェイスパークでサイレント・ビジルを行う。原爆の犠牲者を追悼し、核兵器の終結を訴えるための無言の意思表示で、8年ほど前から私も実行委員会の一人として参加している。
ビジルに先だって、昨年の長崎に続き、この6月には広島を再訪した。今回は大学生の娘を連れていったが、原爆ドームや資料館は、彼女にも平和の尊さをあらためて強く認識させたようだった。
広島のあと、福山に足をのばし、「ホロコースト記念棺」を訪れた。ここは、ナチスによる大虐殺で犠牲となった150万人の子供たちのことを日本の子供にも知ってもらおうと、キリスト教の牧師である大塚信さんが開設した日本で最初のホロコースト関連施設。 当日は、日曜で休館日だったにかかわらず、大塚牧師は、私たちをやさしく迎え、いろいろと話しをして下さった。牧師が記念館を作ろうと決意したのは、アンネ・フランクの父親、オットー・フランクさんに生前、「娘の死に同情するだけではなく、偏見をなくすために何かをして欲しい」といわれたことが、動機だったという。その後200余のユダヤ系団体や個人に手紙を書き、長年かけて遺品などを集めたあと、アンネ没後50年の1995年に現在の記念館を開設した。
人種偏見は、自分と違う者を排他すること、つまりいじめに通じる、として、日本の子供たちにホロコーストの意味を学び、思いやりの心を育ててもらいたい、とする大塚牧師の話に深い共鳴を感じて帰途についた。
原爆投下とホロコーストは、同じ観点で論じる問題ではないが、人類が再び犯してはならない過ちとして、そのために個々の認識が必要とされている点で、共通する所も多い。
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サイレントビジュル
8.18.2000
スカースデールの平和団体、スカースデール・キャンペーン・フォー・ピース・スルー・コモン・セキュリティは、8月5日(土曜日)、正午から午後2時まで,駅前のチェース・パークでサイレント・ビジルを行った。広島、長崎の犠牲者を追悼し、核兵器の使用に対して無言の意志表示をするもので、1981年以来、毎年続いている。
今年度のビジルの責任者の一人、ヘンリー・エルキンさんは、「米国や旧ソビエトの新しい国々は、今や人類全体を破壊出来るほどの核兵器を保持しています。それらが再び戦争で使われないようにするためには、核の脅威を認識させることで国連を動かすしかありません。」と、個々の運動は小規模でも、集まれば大きな力になり得るとして、人々の参加を呼びかけていた。
ビジルの趣旨に賛同し、2年前から参加している、高校教師でホワイトプレインズ在住のリズ・シャッツさんは、「6才の娘を核兵器の犠牲にはしたくないので,自分に出来ることをしています。核の脅威は今や国籍を問いません。」と、語っていた。
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副大統領候補に選ばれたリーバマン議員 8.18.2000
コネカット州のジョセフ・リーバマン上院議員が民主党の副大統領候補に選ばれたことで、アメリカの宗教や人種問題があらたな話題になっている。リーバマン議員がユダヤ系アメリカ人だからで、話題の争点は、「アメリカは、ユダヤ人を副大統領に出来るほど人種問題に対して成長したか」というものである
ケネディ大統領が1960年に大統領選に臨んだ時は、彼がカトリック教徒であることが問題になったが、当選することで、それまで小数派だったカトリック教徒の人たちを多数派の一員とし、同時に他のマイノリティーにも道を開いたのだった。
数日前に行われたギャラップ調査によると、全国民の88%は、リーバマン議員がユダヤ系であることと、彼が副大統領になることとは関係がないと答えている。これは、1937年に行われた調査、「大統領になるための十分な素質、業績をもった人が、たまたまユダヤ人だった場合、あなたはその人を選ぶか」という質問にして「イエス」の回答が47%にすぎなかったことと比べると大きな違いだ。
しかし、その進歩をもってしても、ユダヤ人だけは感覚的に受け付けられないと思っている人たちは今だに少なくないようで、つい先だってはテキサスの黒人運動の指導者が、ラジオでリーバマン議員のことを「ユダヤ人で金儲けしか興味がない」という意味の発言をして、役職を追われた。インタネットにも、どうしてこうも憎悪しなければならないのかと胸が痛むほどの、ヘイトメッセージが、これまで以上に溢れている。
民主党ウェストチェスター支部のチャーマン、デービッド・アルパートさんは、「リーバマン議員の大統領選への参加は、ケネディ大統領が敷いたレールが着実に作動していることを示すもの」としながら、ゴア副大統領の決断にも賞賛の声を送っている。
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南北統一の夢 9.1.2000
8月15日から18日まで北朝鮮と韓国の離散家族100人づつが各々の家族や親族と50年ぶりに再会した。6月の南北首脳会談の結果実現したもので、1984年以来15年ぶりの相互訪問となった。
家族が離散した時の様々な事情や再会の喜びの様子を新聞やテレビで目にしながら、数日の逢瀬に50年もの歳月が必要だった人たちの運命の過酷さに胸が憑かれる様な思いを感じたものだった。相互訪問に参加できた人たちはそれでもまだ幸運な一握りで、北朝鮮に肉親のいる韓国人の数は120万、2、3世を含めると770万に達するという。
スカースデール在住のインセン・リーさんは、家族の属するコリアン・チャーチでもこのニュースは喜びを持って迎えられているとしながら、個人的には「いつも故郷いつも北の故郷に帰りたいと言っていた母が生存中に今日の日が来て欲しかった。50年はあまりに、長かった。」と切なさが隠せない様子だった。
同じくスカースデール在住のソクナン・ジョンさんは、「今回の相互訪問を最初のステップとして早急に南北統一を実現させるには、外圧が不可欠。アメリカ在住の韓国人も日本人や中国人と連携してヒスパニックに匹敵するような強力なアジア人のロビーを作る時が来ていると思う。」と語っていた。
本国の経済は、日本同様、今一つといった所のようであるが、ニューヨークの韓国人をみる限り、クイーンズやフォートリーなどにも大きなコミュニティを形成して、よく頑張っている印象を受ける。スカースデール近郊に移り住む韓国人家族もここ数年増え続けていて、その数で往年の日本人家族と入れ替わってしまった感じさえある。その勢いを見ていると、ソクナンさんのいう「外圧」の影響も遠い日のことではないような気がする。
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インターネットで近づく日本 9.15.2000
私どもの非営利組織、ジャパン・アメリカ・コミュニティ・アウトリーチ(JACO)が、ホワイントプレインズで活動を始めてから丁度一年が経過した。日本文化紹介活動、教材貸し出し、オリエンテーションなど、全てのプログラムを、コスト以外は無料で提供しているので、財政的には楽ではないが、多くの方々のご協力を得て、地域に根付いた組織となりつつある。
活動範囲は、地域住民が対象なのでウェストチェスター周辺に限っているが、ホームページをみてという問い合わせはアメリカ各地から、時には日本からも寄せられる。中でも最近多く、考えさせるのが、「アメリカで英語を勉強したいので情報を送って欲しい」という類の要請。大学に入りたいのか、語学を勉強したいだけなのか、背景が分からないので正確な情報の送りようもない。そんな時は、目的を絞って、自分にあうサイトを気長に検索されるよう、返事をさしあげているが、何をやりたいか自分でもつかめないまま、外国で語学だけを勉強してどうするつもりだろうなど、老婆心が働いてしまうのも事実。
一方、若い人たちが、インターネットなどを通じて、簡単に外へ出てみようかと思い立つのも悪いことではないとも思う。アメリカで教育を受ける日本人の子供たちが日米双方の文化をきちんと身につけた大人に成長する場合が多いように、目的は何であれ、外の世界に触れることは、様々な文化の違いを知り、自国を客観的に見る目も養成出来ると思うからだ。
ウェストチェスター周辺日米住民の相互理解を目的に設立したJACOだったが、ホームページに寄せられる様々な便りを通じて当世の若者気質をかいま見ることを含めて、あらたな世界の広がりを感じている。
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我が街を訪れた大統領 9.29.2000
クリントン大統領は、9月11日、ニューロシェルのジューイッシュ・コミュニティセンターを訪問した。ヒラリーさんの上院戦の応援に駆けつけたもので、講演のあと、スカースデール高校を訪れて、教師や生徒の見送る中、校庭からヘリコプターで帰路についた。大統領はこの日、暴力的映画やビデオ・コンピュター・ゲームの氾濫が子供たちに及ぼす影響について話をし、「親にとって子育てほどチャレンジングな仕事はなく、この仕事をしやすくするためにも上院はヒラリーのような人材を必要としている」と語った。
ウェストチェター周辺でミリオン・マーム・マーチを組織し、今回の講演にも参加したエリス・リッチマンさんは、講演のあと、「銃にせよ、映画やビデオ・ゲームにせよ、昨今の暴力の蔓延は民主社会として恥ずべきこと。この問題は、親や地域社会、企業、政治家など、すべての大人が手をとって真摯に取り組まないかぎり、解決はありえないと思うので大統領の意見に賛同する」と話していた。
彼女はまた、「子供たちを安全に育て、立派な社会人として世の中に送り出すのは親に課された最も大切な責任」として今後も銃規制運動に力を入れるといっている。ミリオン・マーム・マーチは、ワシントンで行進したあと、あらたに銃規制を政治に働きかける運動として発足、各地で集会を続けている。
大統領のスカースデール高校訪問は、朝から学校中をそわそわさせ、離着準備で数日前から学校周辺を低非行で旋回していた大統領専用のヘリコプターも、閑静な住宅街に不釣り合いな喧噪をもたらした。ヒラリーさんが上院選に立候補して以来、ウェストチェスターに住む者として、大統領の存在をいろいろな意味で身近に感じるようになった。
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平和教育 10.13.2000
10月4日、スカースデールのヒッチコック教会でウィメンズ・インターフェイス・カウンシル主催のランチオンと講演が行われた。この組織はスカースデール/ハーツデール周辺に居住する女性たちが宗教の違いから来るお互いの誤解をなくそうと、1929年に設立したもので、以来定期的に講演や集会、ランチオンなどを企画、実践している。今回は、ユダヤの新年にあたっていたこともあり、参加者は全員、食事の前に林檎に蜂蜜を浸してこの一年が「スィート・イヤー」であることを祈った。
ランチオンのスピーカーに招待されたのは、「ハーグ平和アピール」のプレジデントで、現在ノーベル平和賞の候補にもあがっているコーラ・ワイズさん。ワイズさんは、まず、「ハーグ平和アピール」について、1899年に当時のロシア皇帝ニコライ2世が、「永続的な世界平和」を呼びかけて、オランダのハーグで開催した第一回平和会議以来、一貫して世界平和に貢献している組織であることなどを説明。ついで、多くの国際条約が生まれたいきさつや国際司法裁判所の活動などについて語った。
その後、ユーゴスラビアの紛争などに例をあげながら、戦争が起こらないようにするためには子供の頃からの教育が大切であるとして、現在、この団体では、世界中の学校でカリキュラムの中に「平和教育」を盛り込む様、様々な方法で提唱し続けていると話した。 ワイズさんは、「大統領候補者の討論では、軍事予算を増やすことが話題になりましたが、長い目でみれば、軍事費を節約してその分を「平和教育」に費やす方がずっと効果的だと思うんですけれどね。」と語っていた。
イスラエルで再び繰り返されている紛争に胸の痛みを感じるにつけ、「ハーグ平和アピール」の提唱する幼児からの平和教育が一日も早く世界中に浸透することを願わずにはいられない。
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ボランティアの街 10.27.2000
10月17日、スカースデールのタウン&ビレッジ市民の会が主催するコミュニティ・フォーラムにパネリストの一人として参加した。フォーラムの主旨は、新旧の市民が集ってスカースデールについて話しあおうというもので、ハーバード大学を卒業したあと、38年間母校のスカースデール高校で歴史を教え、昨年引退したエリック・ロスチャイルド先生が司会をつとめた。
先ず、「どうして居住区にスカースデールを選んだか」という先生の質問に対して9人のパネリストのうちのほとんどが、マンハッタンへの通勤に便利なこと、環境がよく、教育水準が高いことをあげた。私は、その他に、ユダヤ教会や日本人学校(補習校)が近くにあるという点で自分たちの子育てに理想的なコミュニティだったことを付け加えた。
ついで、「スカースデールに来て驚いたこと」という質問に対して、私は、「メイヤーや議員、教育委員会のメンバーなど、自治体、学校行政を司る人たちがすべてボランティア」であることをあげた。そして、過去17年間、私がこの地で学んだことは、活動に参加してして得られる喜び、つまりボランティアの真髄だったことを話した。
これに対してスカースデールで30年、50年と様々な活動に携わっている何人かの住民からから以前に比べて低くなっている住民の地域への関わりを嘆く声も聞かれた。それでも、他のコミュニティに比べるとまだボランティア人口は極端に高い様で、行政が円滑に進んでいるのがそのためであることには誰にも異存はないようだった。
パネリストの大半は高校までスカースデールに住んでいて子供が生まれたのを機に戻ってきたという人たちで、彼らは、以前に比べて文化の多様性が目立つことをすばらしい変化であるとしていた。私は、それに対して「そうした人たちにも地域活動への参加を奨励し続けることで本人たちの喜び以上に町全体にもまたあらたな進歩があるのではないか」と意見をのべた。
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ディ アフター
11.10.2000
ハローウィンが終わった。4月最初の日曜日にはじまるディライト・セービングタイムが10月の最後の日曜日に終わり、時間が。時間戻るため毎年ハローウィンの頃になると急に秋の深まりを感じる。わが家では、ここ数年、ハローウィンの翌日、前夜ぶつけられた卵を拭き取るという作業も秋の年中行事となっている。
昨年、一昨年は車がやられた。外に出してあった車一面に卵がぶっつけられていて、どこも壊れたりした所はなかったが細部に散った中味や殻を拭き取るのに時間がかかり不愉快な思いをしたものだった今年もやられるかな、と「トリック・オア・トリート」の子供たちの訪問が絶えたあともリビング・ルームで本を読んだりしながら、様子をみていたが、敵もさるもの、こちらが起きている間には来ず、夜中にやってきたらしい。朝、起きてみると玄関の壁一面に卵が飛び散っていた。
警察は、毎回記録にはとってくれるものの、ハローウィンと卵は、どこにでもある、いわゆる「いたずら」として片付け、よほどどこかが破壊でもしていなければ、この件だけで「犯人」を捜すことはしないということだった。
壁のいたる所に執念深くこびりついた卵を拭き取りながら、嫌がらせにせよ、いたずらにせよ、こんなことで鬱憤をはらさなければならない子供たち(或いは大人?)の精神のありように胸の痛みを感じた。そして、これまで新聞のニュースなどで目にしていただけだった人種偏見が原因の嫌がらせに対しても、被害者の心の傷が以前にまして理解出来るような気がしたものだった。
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ヒラリーさんの当選 11.24.2000
ヒラリーさんが上院議員選に当選した。立候補する前、「リッスニング・ツアー」を続けていた本人の話しを直接うかがう機会があり、一部のメディアが作りあげるイメージとは違う、聡明で気さくな人だと思っていたので彼女の当選はとても嬉しかった。
「カーペット・バガー」(渡り政治屋)などとさんざん悪口を言われ、終盤選では、共和党候補のラズィオ氏に追撃を許しそうになりながら、それでも最終的にニューヨーカーに上院議員として選ばれたのは、大統領夫人としての名声だけでない彼女自身の優秀さとバイタリティが正当に評価されたのだと思う。
ラズィオ陣営は、選挙運動中、テレビのコマーシャルなどでしきりに「シー・ダズンツ・ビロング ヒヤ」という言葉を繰り返していたが、その言葉によそ者をよせ着けない排他的なひびきを感じて気になっていたので、彼女の勝利に特に溜飲を下げたような思いを感じたのかもしれない。
この原稿を書いている今、大統領が誰になるのかまだ決まっていないが、ウェストチェスターでは3対1で圧倒的なゴア・リーバマンの勝利だった。ウェストチェスターはまた、今回再選された下院議員のニタ・ローイさん、州政府上院議員のスージー・オッペンハイマーさん、スカースデールからはじめて州下院に立候補して当選したエイミー・ポーリーさんの例に見られるように、民主党の地盤の強さと女性の活躍が目立つ土地柄だ。ヒラリーさんがニューヨークの中でも特に住まいをウェストチェスターに決めたのも、頷ける。
ヒラリーさんの今後の政界での活躍は、女性議員の増加とならんで男性優位の政治を変えていく大きな要素になるに違いない。
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アニタ・ヒルさんのこと 12.8.2000
11月9日、ライ・ヒルトンで行われた「ウェストチェスター・ファンド・フォー・ウィメン・アンド ガールズ」主催の年次朝食会に参加した。この団体は女性の社会的向上をはかって8年前に設立されたもので、その目的に沿ってウェストチェスター地域で様々な活動を行っている組織を支援している。朝食会では、本年度補助金授与の対象となった組織の紹介と、女性の社会向上にリーダーとして特に功績のあった人たちの表彰、次いで、キーノート・スピーカーとして招待された、アニタ・ヒルさんの講演があった。
ヒルさんは、1991年、現在最高裁判所判事となっているクラレンス・トーマスさんの適性確認のための公聴会で、かって上司だったトーマスさんのセクシュアル・ハラスメントを暴露して全国的に名前が知られるようになった人。それまで公の場では殆ど語られることのなかった職場での性的いやがらせを明るみにし、女性に立ち上がるきっかけを与えたとして、彼女の勇気は今も高く評価されている。一方で売名行為という批判にもさらされ、その真摯な訴えにかからわず当のトーマスさんは結局最高裁までのぼりつめたが、彼女の冷静で理論的な主張は多くの人に強い印象を残した。ヒルさんは、講演の冒頭「私の人生は公聴会で初まり、その終結で終わったと思っている人が少なくない」といって聴衆を笑わせていた。
実際には、ワシントンで弁護士として働いたあと、公聴会の頃はオクラホマ大学法学部の教授として、現在はブランダイス大学の教授として活躍している。彼女は、オクラホマの田舎で13人兄弟の末っ子として生まれたあと、黒人として様々な人種偏見を経験しながら、オクラホマ大学、エール大学を経て教授になったことなどを淡々と語った。教壇にたつかたわら人権問題にも関り、公聴会をきっかけに女性問題にも深く関与するようになったこと、などの話しを聞きながら、そのひたむきな人生に以前にもまして深い感銘を受けた。
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ニューヨーク郊外だより(4)
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