Scarsdale station area
Image

ニューヨーク郊外だより (5)  2002

学区と州教育省のいがみあい 2,1,2002

8年生の子供を持つスカースデール学区の親の大半が子供たちにNY州一斉テスト をボイコットしたことを昨年紹介した。(635号)学校側は、「学区の教育方針や水準などを無視した強制的なやり方に賛同出来ない」としてボイコットを容認、その後も様々な方法でテストの見直しをNY教育省に訴えていた。

これに対し、リチャード・ミルズNY州教育長は、このほど現行のあり方を断固続行すると言う強い姿勢を打ち出し、「今後試験を受けない生徒は何らかの制裁を与える」と発表。「教育省が 目指す基準より遙かに高い水準を保っている学校はスカースデールに限らない。教育省のテスト を施行するかどうかはこれまでのように各学区の裁量に任せるべき」と言うスカースデールの訴 えは、州全体の水準を上げるためにはテストは不可欠」として却下された。

自らの定めた方針に、強固反対するスカースデール学区の姿勢はよほど癇にさわったようで、州教育長はニューヨーク・タイムズなどのインタビューで「州試験を受けた子供たちの結果をみても、スカースデールの子供たちがどの子も優秀だというのは神話にすぎない。ちゃんとテストを 受けさせた上で、遅れている面の指導を強化すべきだ」と言っている。

スカースデール教育長のマギルさんは、それに対して、「学区は独自の評価方法ですべての子供 たちのニーズに応じている」として、なぜそこまで州教育省の干渉を受けなければならないのか理解出来ない」と答えている。ミドルスクールPTA会長のスピバックさんによると、この件について同校の講堂で再び開かれるスカースデール学区の集会に、ミルズ州教育長や教育関係者を招待したが出席を断られたと言 う。教育の個別化を誇りとしてきた米国で州教育省とスカースデール学区の軋轢はとても興味深いものがある。

Home

インディアン・ポイント 3,1,2002

9月11日の多発テロ以来、ニューヨーク市北方、約24マイルのハドソン川ぞいにあるインディアン・ポイント電子発電所が再び問題になっている。この発電所は、放射能が漏れていたこ とが見つかって、約1年閉鎖されていたのが昨年1が月に稼働を再会したばかりだったこともあって、多発事件以後特にその安全性が議論を呼んでいた。貿易センターと同じようなテロがもしこの発電所に向けられていたとしたら、50マイル半径に住む人たちの2千万以上が被害にあっ ていたであろうからと言う。

そこへ、1月29日、ブッシュ大統領が一般教書の中で「アル・カイダの隠れ家から、米国全土の地図や著名な建物、電子力、水力発電所の詳細な場所、爆破するための化学物質の作り方などを説明する書類が見つかった」と述べたことから、より大きな問題としてクローズアップされる ことになったのだった。

発電所側は、テロに対して十分な処置をとっているとしているが、実際に事故が起きた場を想定して、現在インディアン・ポイントのあるブッキャナンの町から10マイル以内の半径でそれぞ れの行政の調整による避難計画が進められている。ウェストチェスター行政長官のスパノさんは、「計画は順調」としているものの、今の所、実際に貿易センターのような爆破が起きたとした場合の手だてについては誰も明言は出来ないとしている。
これに対して、民主党から州知事選に立候補している、アンドリュー・クオモさん(前州知事の息子でクリントン政権のHUD長官)は、大都会に近い電子力発電所の存在は危険すぎるとしてすぐに閉鎖すべきだと主張している。

インディアン・ポイントは今後、その必要性を説き、安全性の強化、避難対策などに力をいれているとする現州知事パタキさんとの間で大きな政治問題として、議論が続けられていくようである。

Home


広がる一斉テスト反対運動 3,29,2002

昨年スカースデールが受験をボイコットをして話題になった8年生のニューヨーク州一斉テストは、現在各地で反対運動の広がりを見せている。 3月6日、リチード・ミルズ州教育省長官を招いてスカースデール高校で行われた集会には、エッジモント、バイラムヒル、アービントン、ママロネック、ニューロシェルなどのウェストチェスター教育関係者が詰めかけ、口々にその弊害を訴えた。
 
エッジモント学区のタテカン教育長は、「州全体のレベルをあげるためとは言え、実際には、テストの準備などで教師から子供たちと費やすべき多くの時間を奪う結果になっている」と語り、ニューロシェルのケリー教育長は、「学区に在籍する生徒の2割は最近アメリカに来たばかりの移民。学区は多様性の持つすばらしい一面を誇りにしているが、テストで周囲の学校と比べると結果は当然低く、それが公表されることで、マイナス面だけが一人歩きをしてしまう。」と、訴えた。子供たちに余分なプレッシャーを与えるだけで教育の真の目的を達しているとは言えないとする声も多かった。
これに対し、ミルズ長官は、新しいテストが施行されるようになってから急激に成績のあがったヨンカーズやマウントバーノンの例をあげ、全体のレベルが確実にあがっていることを指摘。今後も関係者との対話を続けるとしながら、現行のやり方を強く擁護した。 翌日行われた一斉テストでは、今年は子供たちにボイコットをさせる変わりに、中学校の前で反対デモが行われたが、ニューヨーク市やホワイトプレインズの教育関係者も参加、ミルズ長官の「中央集権的」な教育方針に対する不満が渦巻いた。

テストを巡る州教育省と各学区との確執はとどまるところを知らないと言う感じだ。

Home


イスラエル支援の集会 4.26、2002

4月15日(月曜日)、首都ワシントンで行われたイスラエル支援の集会に参加した。早朝6時にホワイトプレインズのユダヤ教会をバスで出発、一時から三時まで議事堂前でスピーカーの話しを聞いたあと、すぐ帰りのバスに乗り込んだが、交通渋滞のため家に帰り着いたのは翌日の早朝と言う長い一日となった。

参加者の数は翌日の新聞によると、ウェストチェスターだけで3000人、全米では十万人以上に達し、アメリカで行われたプロ・イスラエルの集会としては最大規模であったという。 集会では、イスラエルのナタニアフ・元首相、共和党でキリスト教右派のビル・ベネットさん、ジュリアーニ元ニューヨーク市長、ノーベル文学賞受賞作家のイライ・ウィーゼルさんなどがテロをなくし、話しあいによる紛争解決の必要を強く訴えた。
ワシントンへの行き帰りのバスの中で中東紛争についていろいろな人に話を伺ったが、イスラエル政府のやりかたに全面的に賛同している人は少ないと言う気がした。一緒に参加したスカースデールのグロリア・ルーイッツさんは、「イスラエル政府のやり方には問題もある。だが、理由が何であれ、テロは許されるべきではないし、屈してしまったらイスラエルの存続はあり得ない。」と語っていた。
ホワイトプレーンズ在住のアラン・スタインさんは、「イスラエルの政策に同意出来ない面もあるが、四面楚歌となっている今、一人でも多くのサポートが必要だと思ったから参加した。」と言っていた。

イスラエル人でスカースデール在住のデビッド・ダカスさんは、「イスラエル政府は、紛争の対象になっている土地から早く撤退し、その境界線に壁を作るべきだ。和平案を土壇場で蹴って、若者に自爆テロを繰り返させるパレスチナ指導層のもとではもはや共存は無理だと思う。」と話す。
パウエル長官は昨日(17日)、和平調停に明らかな進展のないまま帰国した。集会で接した多くの人たちの切実な平和への願いに関わらず、紛争はそのあらたな広がりが懸念されている。

Home


ジェハン・サダト夫人の願い 5.17、2002

4月31日、パーチェスの州立大学で元エジプト大統領の未亡人、ジェハン・サダトさんの講演会が行われた。サダト大統領は、1978年、キャンプ・ディビット協定でアラブ指導者の中ではじめてイスラエルを国として認め、その勇敢な行動が称えられたが3年後、のちにオサマ・ビンラディンの参謀となるエジプト人医師アイマン・アルザワヒリ等に暗殺された。

サダトさんは、大統領夫人当時からハンディキャップを持った女性の教育に尽くすなど女性の社会向上に奔走、現在ウィメンズ・インタナショナル・センターの名誉会長をつとめている。1993年からはメリーランド大学でも国際学の教授として教鞭をとっている。 
サダトさんは、自ら夫をテロで亡くした経験から、9月11日の多発テロで家族を亡くした人たちの気持ちが痛い程よくわかるとし、その撲滅のために戦っている米国を支持していると語った。また米国はイラクを攻撃する前に、イスラエルとパレスティナ人紛争の迅速な解決に力を貸すべき、そのために個人も平和の使節になる必要があることなどを呼びかけていた。

貿易センターのテロで主人を亡くされHさんにお目にかかる機会があった。Hさんはご主人が亡くなられたあと、5歳のお坊ちゃまに急激な変化を与えないためにと二人だけでこちらに残っておられたが、4月下旬の日本での幼稚園の入園を控えて3月下旬に帰国された方。
お父さんの突然の死がまだよくは理解されていないらしいおぼっちゃまのいたいけな姿に接しながら、テロで亡くなった人たちの背後にいる無数のHさんのような家族が思われてあらたな怒りを感じたものだった。

サダトさんの話は、平和の使節としてこうしたテロを再び繰り返させないために何が出来るかと言う問いかけをあらためて自分自身にさせるものだったように思う。

Home


ユダヤ教のコンファメーション 5.31,2002
 
5月31日、家族が属しているスカースデール・シナゴーグでコンファメーション(堅信)の式に参加する。2年前、13人のユダヤ人女性とバット・ミツバの儀式に参加したが、そのうちの5人にあらたに男性が一人加わって今回は7名で2年間この日のための学習を続けた。
ユダヤ教では、通常男児が13歳、女児は12歳を過ぎるとそれぞれバール、バット・ミツバと呼ばれる儀式に、親戚や友人たちを招待して大人の仲間入りしたことを祝う。

その後は宗派によって違いがあるが、他の多くのリフォーム(保守派)教会のように、スカースデール・シナゴーグも希望する者に学習の場を提供し、16歳で、コンファメーションの式を行っている。バール、バット・ミツバでユダヤ人社会からユダヤ人の大人になったことを認められた子供たちがコンファメーションでは自らの意思でユダヤ教を受け入れるのである。

コンファーメーションの儀式はユダヤ教では比較的新しい習慣で、19世紀にドイツの改革派が13歳では若すぎてユダヤ教の真の教えは分からないとして、バール、バット・ミツバのかわりに16,7歳の子供たちを対象にはじめたのが最初であるという。現在ではコンファメーションは、ほとんどの場合、バール、バット・ミツバに続くユダヤ教の学習として取り入れられている。

ユダヤ教では、今でも宗派によっては教会で男女同席できない所があるように、女性への門戸が閉ざされていたため、近年大人のためのクラスを設けている教会が多い。一緒にコンファメーションの儀式を行う人たちも、全員、子供たちが既に巣立ったか高校生の親で、それぞれ仕事を持って社会的にも活躍している人たちだ。その豊かな経験からクラスメイトに教えられることも多かった。ただ、学べば学ぶほど、ユダヤ教の奥の深さを感じ、私にとってコンファメーションとは知らないことの多さを確認するための儀式ではないかという気がしている。

Home


死を急ぐ若者たち 6.7、2002

5月21日朝、スカースデールのダイビングプールで、プールの底に沈んでいる青年が発見された。メモリアルディの週末に行われる恒例のプール開きに備え掃除をしていた係の人が気づいたもので、体が浮き上がらないように、ピクニック用のテーブルを鎖で首につないで息絶えていたという。
青年はのちの調べで、スカースデールに住む19歳の大学2年であることが分かった。警察の発表では、他殺の線で聞き込みも続けているが、本人が前日の午後11時に自宅から一人でタクシーに乗りプールの前でおりていること、乱暴された形跡がないことなどの状況から、自殺である見方が強いという。プール脇のベンチに残されていた運転免許書などから身元が簡単に判明したことも、覚悟の自殺であったことを裏付ける要素になっているようだ。
ミドルスクールで青年を教えたという社会科の先生は、新聞のインタビューで、「勤勉で聡明な生徒だったのに」と無念さをかくさず、父親は、「人助けの好きだった息子だった。なぜ、自分を救えなかったのか」と悔やんでも悔やみ切れない思いを伝えている。
この事件でプール開きは一週間延期されたが、そのことよりより青年の死に方に対する強い衝撃でここしばらく、スカースデールの町は特に子供を持つ人たちの間でこの話がもちきりという感があった。

3ヶ月ほど前には子供たちを通じて私もよく知っていた聡明で可愛いらしい23歳の女性が服毒自殺をした。事前に兆候が見抜けなかったと憔悴された様子で話されるご両親の話を伺いながらお気の毒で胸がつぶれるような思いをしたものだった。同じような環境でご両親の愛情をたっぷり受けて何不自由なく育っているように見える若者がまたしても死を選んだことにあらためてやりきれない思いを感じている。

Home


死刑廃止運動の広がり
 6,21,2002

5月19日、スカースデールのヒッチコック長老教会でデービッド・カゼンスキーさんの講演があった。デービッドさんは、1979年から1995年まで爆発物の入った郵便物を個人や組織に送り続け結果的に3人を殺害、23人に危害を与え「ウナボーマー」として知られたテッド・カゼンスキーの弟。兄は終身刑となって現在も服役中だが、デービッドさんは裁判を傍聴したり、犠牲者やその家族の話を聞いているうちに現状の死刑のあり方に疑問を感じ、死刑廃止運動に携わるようになったという。今回の講演は運動推進のプログラムの一環として行われた。
講演では先ず、FBIから全米に指名手配されていた爆破犯人が兄ではないかと知らされた時の驚き、母親と一緒に肉親の逮捕に手を貸した時の自責の念などを語り、その後、本題である現行の死刑制度の問題について次のように語った。

「1973年以降、全米で101人の無実の人が様々な理由で処刑され、近年だけでも13人の死刑囚がDNAの検査結果で無実が証明されている。大罪にはそれに応じた罰が必要とする死刑擁護論は分からないではないが、間違って殺されるには人の命はあまりにも尊い。処刑の割合が黒人と白人では圧倒的に違うことなど、公平ではないことも現行のありかたには問題が多すぎる。」

多発テロ事件の犯人の一人として拘留されているザカリアス・モサウリの情報引き渡しを求めた米国に対して、ドイツ大使館は、6月12日、「テロには断固たたかうが、ドイツは他のヨーロッパ諸国同様、死刑を廃止しており、死刑につながるかもしれない情報は提供出来ない」としてそれを拒んだ。その後新聞紙上でテレビのトーク番組でドイツ大使館の措置に対して賛否両論が相次いだが、米国の死刑制度についてあらためて考えさせられた人も多かったようだ。

Home


アメリカ郊外に広がるモスク
 7,5,2002

タリータウンで今、モスク(イスラム教寺院)建築の計画がすすめられている。イスラム教徒の人口増加に応じるためで、推進しているのはニューヨークのイスラミック・カルチャラル・センター。

イスラム教徒は現在全米に約600万、ウェストチェスター近郊で約2万から5万人が住んでいると推定され、この数は今後も増え続ける傾向にあるという。ニューヨーク周辺ではマンハッタンにあるだけだったモスクも15年ほど前から郊外に進出、ウェストチェスターやロックランドにも幾つか建設された。それでも急激に増える人口のニーズに十分対処しきれていないとか。  
申請を受けたタリータウン・ビレッジは住宅規制などについて現在審議中であるが教育設備を含む5エーカーの建設予定地が住宅街にあることから近くに住む住民の反対の声も少なくない。

その理由について、住民の一人は新聞のインタビューで「人の出入りが交通渋滞を起こすことへの心配もさることながらそれより気になるのはモスクとテロリストとの関連。」と言っている。これに対し、センターの会長、アケルさんは、「我々のグループは、祈る権利を求めているだけの善良なアメリカ市民だ。コミュニティに危害を及ぼすようなことをする訳がない。」と反論する。
世界の宗教の中で今、最も早く広く普及しているといわれるイスラム教、アメリカでもモスクの郊外進出はもはや珍しいことではなくなった。一方で、9月11日の多発テロ事件やその後も続くテロの脅威は、住民の危惧感で新しいモスク建設を難しくしている一面もある。

Home



新しい学生生活
 7,19,2002

昨年9月から通いはじめたサラ・ローレンス大学院、この5月で1年目を終えた。人生も半ばを過ぎてからのあらたな学生生活は体力的にはとてもしんどかった反面、様々な人との新しい出会いを通じて学ぶことの多い一年であったような気がする。
クラスメートの大半は息子と同年齢か少し上くらいで自分が一番年上かと思っていたが、最初の日に隣席のジョーンさんに「今日は孫の同級生とランチ・デイトするのよ。学部は違うけれど彼もここの大学院に在籍してるの。」などと言われて嬉しくなったものだった。ジョーンさんは、インテリア・ディザイナーとしての仕事を少しずつ減らしながら以前から好きだったライティングを本格的に勉強することにしたという。 
66歳のテリーさんも若々しいクラスメートの一人だ。サイコロジストの仕事を昨年引退して大学院に戻ったテリーさんは、ホロコーストの体験を風化させないためにこれからの人生を著作に専念しようと決心したとか。ポーランド生まれの彼女は、ワルシャワのゲットー生活やユダヤ人がナチスに対して行った反乱の様子などを既に回想録として一冊の本にしている。  

「こんなにすばらしい文章の書けるあなたがなぜ今さら学生に?」と聞くと、「若い時は、経済的に自立が出来るようにとサイコロジストの道を選んだけれど働く必要のなくなった今、自分が本当にやりたかったことを得心のいくまで勉強してみようと思ったの。」と応えていた。
ジョーンさんやテリーさんの生き方が全く不自然ではない環境の中であらためていくつになっても再出発できるアメリカのすばらしさを感じている.

Home

樫本大進君のこと 8,2,2002

先日娘とロンドンの町を歩いていたら、偶然思いがけない方に出会った。以前スカースデールに住んでおられた樫本さんで、ご主人の転勤で2度目のロンドン生活であると言う。翌日、早速ご自宅にご招待いただいて昼食をご馳走になりながら、ご子息の大進君の近況などを伺った。
大進君は11歳でドイツの音楽院に招待されて以来いまもドイツ在住とのことで,もちろんお会いすることは出来なかったが、世界的なバヨリニストになられた本人のことをを直接お母様から伺えるのはとても光栄な気がした。

ロンドン生まれの大進君が我が家の近くに越してきたのは彼が5歳の時、今から18年前のことだった。とても人なつっこいあどけない男の子がいったんバヨリンを手にすると別人のように真面目な顔になるのを感動の思いで見つめたことを昨日のことのように思い出す。
大進君や我が家の子供たちの母校、エッジウッド小学校では彼がお母様のピアノ伴奏で全校生にすばらしい演奏を披露してくれた日のことや、低学年の頃から大きい上級生を従えてコンサート・マスターを立派につとめたことなど今でも語り草となっている。「栴檀は双葉より芳しい」と言う例えがあるが、まさしく大進君にぴったりの言葉と言う気がする。

とは言え、11歳でドイツへ渡った大進君には英語圏とはまた違う言葉や文化の壁も待ち受けていたであろう。その困難さを克服し様々なコンクールでの優勝を重ねながら音楽修業に励んできた大進君に心からの喝采を送りたい。お母様の潔子さんは、「彼は自分が日本人であることなど全く意識していないようす。」と言っておられたが、大進君のような日本人の若者が世界をまたにかけて活躍するのを見るのはとても嬉しく、頼もしい気がする。 

Home


JETプログラム
 8,15,2002

7月下旬、娘が日本に立った。JETプログラムで英語を教えるためで、滞在は一年の予定。希望すれば3年までの延長も可能であるという。 
JETは、外国語教育の充実と地域レベルの国際化の促進を目的に、総務省、外務省、文部科学省、地方公共団体が施行している外国人招致プログラムで、1987年の発足以来、既に40の国から3万人が参加、年間6000人が日本各地に滞在しているとか。この6月に大学を卒業した娘もその一人になった訳で、現在招致先の熊本市の教育委員会で教壇に立つための訓練を受けている。

熊本に決まったのは、申請時に3カ所指定出来る希望先のひとつに入れておいたからだそうで、実際に希望が叶えられて本人は喜んでいた。私には自分の故郷で娘が教えるということになったことが、本人から大学で知ったとしてJETに参加すると聞かされた時以上に信じられない思いだった。   
スカースデール高校から今年は娘の他に3人の同級生が日本へ行っており、JET プログラムは、日本の英語教育の一環として各地方自治体で確実に定着しているようだ。 

日本ではまた、こうした外国人招致プログラムの他、平成14年度からは、新学習指導要綱が実施され、その中の「総合的な学習の時間」で小学校低学年からの英語教育が始まると言う。具体的な方法については今の所担任の裁量に任されるとしているが、その方法がどうであれ、30年以上アメリカに住みながらいまだに英語を完全には自分のものにしていないことを痛感する身には母国での早期外国語教育の実施は、「遅きに過ぎる」と言う感じさえする。

ともあれ、母親が日本人であるとはいえ、アメリカで生まれ育ち、ほとんど日本を知らないアメリカ人の娘が、日本社会や学校に何をみるか、本人からの今後の報告が楽しみである。

Home


一高校生の死とウェストチェスター司法長官の政治生命
 8,30,2002

4月中旬、ハリソンでパーティの最中、高校生どうしがけんか、一方の生徒が殴られてコンクリートに頭を強打し昏睡状態のまま一週間後に死亡すると言う事件があった。 
 
この事件で警察は殴った方の高校生を殺人罪で、一緒にいた他の6名を嘘をついて調査を妨害した罪(警察を呼ぶ前にそれまで飲んでいたビールを隠し、実際とは違った供述をしたという。)で告発したが、ウェストチェスターの陪審員が事故として「加害者側に過ちなし」と言う裁定を下したことから、問題が大きくなり、8月21日には被害者の親が弁護士を通じて事件に荷担した10数名の高校生を訴えるための手続をしていると発表した。訴訟の相手には、パーティが行われた家の生徒の親(彼らは事件当時家にはいなかった。)も含まれており、親の責任範囲があらためて問われた感があった。

事件は加害者側となった生徒と被害者に同情する生徒の間に深い溝を作ったが、ウェストチェスター司法長官であるジニー・ピローさんの対処に怒りを感じている住民も少なくない。パーティが開かれた家が彼女の近所で、その家の住人が彼女への多額の政治資金の提供者だったことが分かったからで、知人に都合のいい証拠を陪審員に提出したことが結果的に加害者を「お咎めなし」としたのではないかと受け取られているからだという。
ピローさんは、O.J.シンプソン裁判の頃から、よくテレビにも出ていて、歯切れのいい明確な議論が人気を呼び、ご主人が脱税で服役した時でさえ、その人気にかげりはみられない感じがしたが、疑惑を誘った今回の措置は本人の今後の政治生命を危ぶませる結果となった。
ささいなことから加害者となってしまった高校生に、家族は、「学校で、コミュニティで、本人たちはもう充分裁かれている」としているが、陪審員の裁定を不服とする声は今後も様々な動きに発展していくようだ。

Home


多発テロ事件から1年ーユダヤ系米人の戸惑い
 9.13、2002
 
悪夢の多発テロ事件から1年、全米でテロリストの報復が懸念されている。特に今年の9月11日は、ユダヤ教で最も重要な祭日とされているロシャ・ハシャナー(新年)とその10日後に続くヨムキプア(あがないの日)の間に入っているところから、ユダヤ人コミュニティやシナゴーグには、より厳重な警戒が促されている。

パタキ・ニューヨーク州知事は、9月3日、ナヌエットで開かれた安全対策シンポジュームで、「世界中のユダヤ人コミュニティが野蛮なテロのターゲットになっており、州は、テロ防止対策の一環として祭日の間、特にユダヤ系の多い地区の警戒態勢を強める」と語り、同じ席上、ロックランドの警察署長は、ユダヤ系のコミュニティ・リーダーを前に、「あなた達は、アメリカ人であり、ユダヤ人であると言う二つの 理由でテロリストの憎悪の対象になっている。」として、9月11日前後の警戒を怠らないよう呼びかけている。

ユダヤ系の組織、「アンチ・ディファメーション・リーグ」(ADL)の調査によると、アメリカでは、多発テロ事件以降、シナゴーグの放火や落書き、ユダヤ人に対する暴力などが増えていると言う。ADLのナショナル・ディレクターは、「多発テロ事件は、これまであまり表面には出てこなかったアンチ・セマイト(反ユダヤ主義者)たちに中東紛争同様、その背後にアメリカのユダヤ人が動いている」という説を広げて、躍動する格好の機会となった。」と言っている。

我が家の娘は、大学に在学中、掲示板などに次から次ぎに張り出されるユダヤ人誹謗のビラに憤慨し他の学生とともに学長に何度か話し合いに行ったが、結局問題は解決しなかったと言っていたが、周囲のユダヤ人にも現状に危惧を感じている人たちは少なくない。同じユダヤ教会のメンバーであるガーションさんは、「アメリカ市民である自分たちがなぜユダヤ系と言うだけの理由でテロリストの標的にされなければならないのか」と言う言葉にその不安やいらだちをあらわしていた。

Home


ブロンズ像になったアメリカ版浦島太郎 9,27,2002

9月21日、アーヴィントンの町で「リップ・ヴァン・ウィンクル」像の除幕式が行われる。町の商工会議所が村の文化遺産を子供たちに伝えるために、6万ドルの資金を集めて作らせたもので、6フィートのブロンズ像がアンヴィン村役場に隣接するある緑地に建てられる。
アーヴィントンは、ウェストチェスター北西部、ハドソン川を眼下に見下ろす高台にある閑静な住宅地だ。マンハッタンから約12マイル、メトロノースのハドソンラインに乗るとほぼ25分で到着する。町の名前は、1835年から1859年に死亡するまでここに住み、のちに「アメリカ文学の父」と呼ばれたワシントン・アーヴィングに因んでいる。 

「リップ・ヴァン・ウィンクル」は、ワシントン・アーヴィングの作品、「スケッチブック」の中にあるストーリーのひとつで、ほんの一瞬のつもりが20年も眠ってしまっていたという話の展開から日本ではアメリカ版浦島太郎と呼ぶ人もいる。ブロンズ像は、「リップ・ヴァン・ウィンクル」が長い眠りから覚める所で、実際には舞台の設定はキャッツキルスに設定されているが、アーヴィングに馴染みの深い所でと、生前本人が住んでいた家のすぐ近くに建てられることになったとか。

アーヴィングの作品では、自分の首を探しに夜な夜な墓から出て馬で村を駆け抜けるという首なしの騎士などの「スリーピー・ホローの伝説」もよく知られているが、独立戦争後、急激に変化するアメリカ社会から隔絶され、時間が止まってしまって眠っているような窪地として名付けられた「スリーピー・ホロー」と言う町名が今もそのままアーヴィングトンに隣接しているのがとても興味深い。何年か前、町名改正が話題になっていることを新聞で読んだが、その後、同名の小説が映画になって町の名前が以前に増して知られるようになったことなどから、現状にそぐわないと言う意見は立ち消えになったようだ。

「リップ・ヴァン・ウィンクル」のブロンズ像は、この町を訪れる人たちにあらためてワシントン・アーヴィンの残した業績を思い起こさせるに違いない。

Home


台なしになったパーティ 
10,11,2002

9月20日の金曜日、スカースデール高校で行われたホームカミング・ダンスに200人以上の生徒が酔っぱらって参加し、パーティを台なしにしたことが今週の地方紙を賑わせている。泥酔して動けなくなった者、気を失ったり吐き続けて救急病院へ運ばれた者などでさんさんたる有様だったようだ。
校長からの連絡を受けて、現場に駆けつけた警察の青少年担当官は、「酔った生徒が吐いたり気を失ったりしているクラスメートを介護している格好は、学校の雰囲気とはほど遠いものだった。」と言っている。高校生の飲酒はこれまでもしばしば問題にされていたが、担当官によると、これほど多数が泥酔して学校にやってきたのははじめてという。子供たちのほとんどはお互いの家で一杯ひっかけていて、彼らに一番人気のある飲み物は、ウォッカにオレンジジュースを混ぜたスクリュードライバーとか。

事態を重く見た学校は、翌日各家庭に手紙を出し、ホームカミング・ダンスを今年限りでやめること、飲酒した生徒にはより厳しい懲戒を与えること、未成年の飲酒については家庭でも指導を強めてほしいことなどを呼びかけ、警察も新聞を通じて飲酒の現場をみたら今後はその場でどんどん逮捕するなどの談話を発表している。事件は翌日テレビでも大きく報道されたので、、新聞社には「200人もの子供が飲酒している時親は一体どこで何をしていたのだと」と言う住民からの問い合わせもあいついだようだ。

4月にはハリソンで酔った高校生が相手を死なせると言う事件があったが、今回は特に1,2年生の下級生に泥酔が多かったこともあり、郊外で若年化している子供たちの飲酒問題をあらためて浮き彫りにした感があった。

Home


シーズ オブ ピース(平和の種
10,25,2002

10月3日、この7月に58歳で肺癌に倒れたジョン・ウォーラックさんの追悼式が国連で行われた。ウォーラックさんは、中東担当ジャーナリストとして活躍する傍ら、「シーズ・オブ・ピース」(「平和の種」)と言う団体を創設、その運営に尽力した人として知られている。
「シーズ・オブ・ピース」は紛争の中で育つ子供たちに相互理解の機会を与えるために作られたプログラムで、敵対している国のティーンエジャーを夏休みの数週間メイン州のキャンプ場に招待して一緒に生活させる。そこで様々な活動を通して、最初は「自分たちが犠牲者で相手が侵略者」だ考えている子供たちを「自分たちの教わった歴史だけが現実ではないのかもしれない」ことに気づかせることから、最終的にお互いをうけいれるなるまで、気長に指導していくのだという。

1993年の第一回のキャンプにイスラエル人とパレスティナ人の40人が参加したのをはじめ、その後インドとパキスタン、ギリシャとキプロス、バルカン半島などにプログラムの輪が広がり今年の夏は22カ国から500人以上が参加した。子供たちは、各国政府によって選ばれ、年間100万ドルを超えると言われる運営費は、米国国務省の一部資金援助を除き、大半は民間の寄付によって賄われている。
ウォーラックさんのスカースデール高校の同窓生で、追悼式に参加したグリックスタインさんは、喫煙者でもなかった彼が肺癌で、しかも偉業なかばで亡くなったことを無念としながら、彼の撒いた平和の種は、目立たないながら今後いろいろな所で目を出して行くだろうといっている。

Home


家庭内暴力 との闘い
 11, 8,2002

10月29日、スカースデールのウィメンズ・クラブで第2回目ドメスティック・バイオレンス・フォーラムが開かれた。議会、学校、PTA.,警察、教会、民間団体など町の主だった組織が協力して企画したプログラムで、コミュニティが一体となって家庭内暴力とたたかおうと言うもの。 
キーノート・スピーカーで、全米最大の被害者救済組織、「セーフ・ホライゾン」の理事でもあるアーサー・チャンさんは、幼い 頃に父親に虐待された自らの辛い想い出を交えながら、家庭内暴力の被害者は毎日をテロに怯えるような思いで暮らしており、子供たちがそのまま長じると自分もまた恋人や妻、子供に暴力をふるう加害者となる傾向が強いことなどを語った。

チャンさんはまた、全米で3人に1人の女性が一生に一度は暴力または性的嫌がらせを受けていて、家庭内暴力で危害を受ける女性の数は他のどの犯罪をも上回っていること、これを統計にすると外を歩いている方が自分の家にいるより安全なことをあらわしている、などと続けた。女子高校生の20%はデートの相手から何らかの暴力を受けていて、妊娠中に死亡する女性の数は、夫かボーイフレンドの暴力が原因であることが一番多いと言う。
司会をつとめた駆け込み寺、「マイ・シスターズ・プレース」のホワイトプレーン事務局長、ドモンコスさんは、家庭内暴力がもたらす悲惨さは職場や地域で正しく認識される必要があるとしてスカースデールのように村長を中心に町が一体となってこの問題に直面しようとしているのは、とても意義深く、他の町のモデルになるだろうと言っていた。

Home


地域で始まった未成年の飲酒との闘い 
11,15,2002

11月7日、マンハッタンビル・カレッジにウェストチェスター各地から約200人の関係者が集まり「コミュニティ・チャレンジ」と言うタイトルで会議が開かれた。ホームカミングのパーティで酩酊し、20人以上が懲戒処分を受けたスカースデール、過ちで同級生を殺してしまったハリソン、交通事故死したカーメルの高校生など、最近特に悪化している未成年の飲酒問題について地域としてどのように対処するべきかを話し合うことが目的だった。

ウェストチェスター司法長官で今回の会議を企画したピローさんは、先ず参加者に、飲酒運転をして事故を起こし、ホワイトプレーンズ病院に運ばれたティーンエージャーの惨状をビデオで見せたあと、未成年の飲酒の蔓延は今や親や学校だけでは解決できない所まできていると訴えた。

参加者からは、地域がこの問題に真剣に取り組み始めたのは、重要な最初のステップとしながら、「子供の飲酒を放置する親に問題の深刻さをどうして理解させるかが問題」「未成年だと分かっていながら、酒を勧めたり、売ったりする人たちへのよりもっと厳しい対処が必要」「飲酒が及ぼす体への危害を考えると、専門家による啓蒙が必要」などと言う意見が寄せられた。

スカースデールでもホームカミングの一件以来、学校やPTA、自治体主催などでこの問題に対する様々な話あいが続けられている。11月1日に高校で開かれたPTA主催の特別集会には、ブロンクスビル、ハリソン、ママロネック、ライ地区など、近隣の学区の関係者たちも参加し、お互いに取り組んでい方法などについて情報を交換しあった。

参加者の一人は、「未成年の飲酒やその弊害を公に話し合うことは、子供に酒をすすめる親たちにその誤りを気づかせ、飲酒をしないことで周囲からのプレッシャーを感じている子供たちを救うと言う側面からだけでも意義がある」と言っていた。

Home


バジャイナ・ダイアローグ:
12,16,2002 
                  
11月20日、ライ・ヒルトンで開催された「ウェストチェスター・ファンド・フォー・ウィメン・アンド・ガールズ」の年次朝食会の今年のキーノート・スピーカーはイブ・インズラーさんだった。インズラーさんは、劇作家としての数々の作品の中で、今もオフ・ブロードウェイで上演されている「バジャイナ・モノローグ」の作家として特によく知られている。

講演の内容は、主にその「バジャイナ・モノローグ」で、インズラーさんは、書くにあたっての背景とか、200人を越す世界中の様々な女性にインタビューした時の様子などを時に会場を爆笑の渦にしたり、時に涙にむせばせたりしながら語り、約700人もの聴衆は、まるで心を掴まれたかのように熱心に彼女の話を聞きいっていた。

ウェストチェスター出身のインズラーさんは、父親に性的虐待を受けて成長したため、長じたのちもホームタウンには帰りたくないと思っていたこと、自分の体験を、自分だけの悲惨な思い出として終わらせたくなかったことが「バジャイナ・ダイアローグ」につながったこと、今は劇作家としてだけではなく、様々な組織と一緒にファミリー・バィレンスの撲滅に取り組んでいること、など自らのおいたちにや活動にも触れた。
「バジャイナ・−モノローグ」は「女性器」と言うタイトルから、過激な作品を思い浮かべがちだが、実際には女性器に関するインタビューの結果を纏めもので、劇中初めての生理を迎える少女の心のうちとか、敵軍兵士に犯された難民女性の心境など、様々な女性の胸のうちが切々と語られる。

インズラーさんは最後に、恥ずかしがらずにバジャイナについて真剣に考え、語ることは結局女性自身の自信や解放に繋がるとし、「バジャイナ・ダイアローグ」で、多くのその場を提供したいと結んだ。

Home


アメリカで受講した「日本文学」
 1,10,2003

ブロンクスビルのサラローレンス大学で大学院生となって2年目、秋のセメスターで選択科目に「近代日本文学」をとってみた。若い頃に日本で読んだ本をアメリカ人の学生と翻訳版で勉強してみるのも面白いかなと思ったからである。

本のリストは坪内逍遥から森鴎外、樋口一葉、田山花袋、島崎藤村、永井荷風、夏目漱石、志賀直哉、芥川龍之介、谷崎潤一郎、川端康成、平林たいこ、太宰治、林芙美子、大岡昇平、井伏鱒二、小島信夫、野坂昭如、大江健三郎、河野多恵子、三島由紀夫、園地文子、安部公房、吉本ばなな、など。幅が広く、限られた時間に読み終えたり論文にしたりするのは、ちょっとしんどかったが、大学生がきちんと趣意を理解し、それぞれについて造詣の深い意見を述べることにとても感動した。名作と言われる日本文学の殆どが今やきちんと英語に翻訳されて世界中で読みつがれていることもすばらしいと思った。

今回読んだ本の中であらためて心に残ったのは、井伏鱒二の「黒い雨」。学生の殆どは、この本に接するまで広島の惨状がこれほどまでとは知らなかったと、真摯に驚いていたが、日本が訴え続けている核の脅威がアメリカ一般には伝わっていないことにあらためてもどかしさを感じたものだった。出来ることなら、イラクとの開戦準備に余念のないアメリカ政府の要人たちに読んでいただきたい一冊である。
翻訳による「近代日本文学」受講の全体的な感慨と言えば、日本で読んだ頃の感激がうすれてしまったことへの一抹の寂しさと、男性作家の描く女性のありように日本いる頃にには気づかなかった抵抗を感じて十分には楽しめない面があったことだろうか。一方で久しぶりに心の故郷に帰ってきたような、懐かしい安堵感は、30年以上外国に住みながら、変わらない自分の中の日本人をあらためて感じさせるものだったように思う 。

Top   





Image
Image
image