Scarsdale
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ぼくらはハーフじゃない ある母親の記録: 偏見(3)日米新聞1987

イメージ:こどもこの夏お前たちを日本へ連れていって一番嬉しかった事は、お前たちが家ではあまり使いたがらなくなった日本語を何とか駆使しながら従兄弟たちや伯父さん、伯母さんと意思を通じあわせていた事だ。特に、多発性硬化症のために殆ど視力をなくしてしまっている伯母さんがデビが話をしているのを聞くたび「ほんに邦子がこまかった頃のごたる」と言って涙を出さんばかりであったのは本当に嬉しく、それだけでもおまえたちを日本へ連れていったかいがあったと思ったものだ。自分の中に本当に相手に伝えたいものがあれば、人と人との触れ合いに必ずしも流暢な言葉はいらないし、大切に育んでいる思いは言葉を駆使しなくとも必ず相手に伝わると信じてはいるけれど、たった一人の私の姉、そう、おまえたちの千代子伯母さんにだけはどうしても日本語で接して欲しかった。幼い子供3人を残して父親が早くに逝ったため働く母親の代わりになって私や兄の面倒を見てくれた伯母さん、若い時は健康そのもので病気などとは全く縁がなかったのに40代で奇病に侵されて下半身の自由を失い殆ど盲目となって一人では歩く事も出来なくなっている千代子伯母さんにだけは理屈ではなく、どうしてもおまえ達に100%日本人でいて欲しかった。アメリカ人の部分をもって接してしてもらいたくなかったのだ。


これはもちろんおまえたちの中のアメリカ人を否定するものではない。そんなことこと言われなくても判っているね。うまく説明出来ないけれど、何といったらいいのか伯母さんに日本語で話してくれなければ、これまでの私自身の母親としてのありかたが問われるような(ちょっとオーバーかな)そんな思いに駆られたものだけど、それが杷憂であった事がとても嬉しい。おまえたちに向けられる伯母さんの笑顔を見る度に私の胸は誇りでつぶれそうだった。お祖母さんももうすこし生きていてくれれば この思いを分かち合う事が出来たろうに、こんなに成長した孫の姿も見ずに逝っちゃうなんて本当に慌て者すぎるよね。それにしても100%日本人でいて欲しいと思う母の願いに反して日本では「ハーフ」と言う言葉を実によく耳にしたね。ダニエルは「どうして僕たちがハーフなの。ハーフと言うのは半分と言うことでしょう。半分の人間なんてあり得ないじゃないか」と不可解な顔をしていたけれど、ハーフなんて本当におかしな言葉だと思うよ。父さんと母さんが誇りをもっておまえ達に伝承したいそれぞれの文化は決して半分ずつなんかでは有り得ないし、日本もアメリカも共にお前たちの中に住んでいるのだから、その意味では「ダブル」とでも呼ばれるべきではないのかしら。「ハーフlなんて、まるで日本人としては半人前と言った感じだものね。その意味でこれは明らかに差別用語であると思うけれど、言っている人に悪意があるとは思えないばかりか、中には誉め言葉と考えているらしい人もいて、いちいちその事で苦情を言う気ににはなれない。でも、本当の所気になるのは「ハーフ」という言葉そのものではなく、その根底に流れている異質なものに極端に敏感な日本人杜会のおまえたちを見る目、つまり自分たちとは違った人種であるという認識だ。この認識のある限り、誰もがアメリカ人となれるこの国と違って、おまえたちが日本人として完全に受け入れられる事はまずないような気がする。しかし、それがどうだって言うんだろう。伯母さんの涙を流さんばかりの笑顔以外に何を望むことがあったろうか。おまえたちの母親である事の誇りと喜びは、以前にも増して私の中で大きくふくらんでいくばかりだ。

伯母さんのこと

伯母さんのことを考えると私は自分が健康でいる申し訳なさでいっぱいになる。病に冒されてすでに8年余、あれほど好きだった読書はおろか杖なしでは歩く事も出来ない伯母さんを見るたびに、代われるものなら代りたいと思う。けれど、幼いおまえたちの事を考えれば今私は病気になるわけにはいかないし、伯母さんには本当に悪いと思いつつ自分の健康に毎日感謝しないではいられない。

伯母さんの病気はもう殆ど回復の見込みはないのだそうだ。杖にすがればどうやらでも歩けると言う現状と、近くにいけばぽんやりと輪郭だけは掴めるという今の視力がそれ以上悪化しなければそれをもってよしとしなければならないのだという。日進月歩と言われる医学の進歩をもってしても伯母さんの病気に未だに手立てのないというのが考えれば本当に悲しく腹立たしい。ただ、遠くに離れて何の力にもなれない私にとって唯一の救いはおまえたちも知っているように伯母さんが何時も明るく、少なくとも精神的には病に負けてはいないらしいことである。電話だけで聞いていると時々ふっと元気な頃の伯母さんと話している錯覚に陥る程だ。

「昔ば思えば、今はこうして働かんで毎日寝とってん生活ば出来るけんね。極楽たい。」と、実際極楽とは正反対のような不自由な生活の中で伯母さんはひとことの愚痴もこぽさず、それを自分に与えられた運命として静かに受け止めているように見える。若いころから一生懸命働きながら、その事で日本の繁栄の一環を担ったかもしれない伯母さんのなのに今や世界に冠たる経済大国となった国に暮らしながらその恩恵を殆ど受ける事なく世間から身を隠すようにひっそりと暮らしているのだ。そして伯母さんはその事実さえ甘受しているように見える。

程度は幾らか軽いとは言え同じ多発性硬化症で、歩く事の不自由なおまえたちのルーシー大叔母さん(父さんの叔母さん)が、全て車椅子に沿った生括を基に作られている政府援助のアパートで、快適とは言えないまでも、やさしいシーモア大叔父さんの愛情に包まれて以前とほぼ変わらない暮らしを続けているのを見ると、その違いに不条理を感じないでいられない。旧態依然の日本家屋で車椅子も使えず、長患いの妻を持つ夫としてそのあり方を誰も責められないにせよ、殆ど精神的な支えとはなっていないらしい伯父さんや、自分達の生活を築くのに忙しい子供たちを周りにしてそれでも一言の愚痴もこぽさず笑顔を絶やさない伯母さんには感動すらおぽえる。

伯母さんのとの強籾な精神力はどこから来るものだろう。伯母さんの強さにかっての日本を見、伯母さんの中に豊かさに慣れて私たち日本人がなくしはじめている何かを見ると言ったら、おまえ達にその意味が分かるだろうか。おまえ達にとって日本と言えばどこへ行っても物の溢れている豊かな国かもしれないけれど、母さんの小さい頃は本当に貧しい国だった。戦後の瓦礫の中で食べるものも十分にはなく、母さんはお祖母さんや伯母さんによれば「何時もおなかをすかしてピーピー泣いていた子供」だそうだ。幼かった私にはその空腹感も思い出としては全く残っていないけれど戦中、戦後の混乱期に青春をすごした10才年上の伯母さんにはそれは良きにつけ悪しきにつけ人格形成に影響を与える程の強烈さだったようだ。焼け野原に立ち尽くし空腹に泣いたあの頃を思えば毎日夜露をしのげて食べれるだけでも今日の生活は感謝に値する事だと伯母さんは言う。「空襲警報」で逃げ回わる必要もなく布団の中で熟唾出来るだけでも今は幸せだと思わねばと伯母さんは言い、「あの時代ば乗り切ったんだけん、病に何ぞ負くるもんね」と言って伯母さんは笑うのだ。

そうして見ると、飢餓感や戦争への恐怖は伯母さんを苦しめはしたけれど一方でその強烈な体験は伯母さんに何にも負けない強靭な精神力を与えたのではなかろうか。ただ食べれるだけ眠れるだけというような、私たちが日頃まったく忘れてしまっている些細なことに感謝するという謙虚さも恐らく伯母さんはその辛い日々から学んだものだと思う。そして、その謙虚さで伯母さんは内面は計り知れないとしても、少なくとも私の目には予後の悪さにかかわらず精神の安定を保とうとしているように見える。物欲からも殆ど解放されて、あらゆるメディアの宣伝に購買欲を掻き立てられ、欲しいものを手に入れる事でせわしく走り回っているかのような世間の慌ただしさをよそに伯母さんの生活はむしろ清々しく、見ようによっては悠々と暮らしているように見えなくもない。その静かさと質素な様子は貧しかったかっての自分を思い出させ、物質の豊さに慣れて感謝の気持ちを忘れがちな自分の中の著りを戒めさせずにはおかないものがある。

おまえたちは今幼なすぎて伯母せんの偉大さをよくは理解出来ないかも知れないけれど、あの笑顔さえ覚えておいてくれれば必ず私の言っているとの意味が分かる時が来ると信じている。社会の片隅でそれこそ隠れるようにひっそり暮らしている伯母さんだが、 私にとってはこれまでに会ったどの人より、またこれまで読んだ偉人伝中のどの人物より立派な人だ。この伯母さんと話す時のためだけでもおまえ達には日本語を忘れないでいて欲しいと思う。

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