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バルト三国の旅(失われたユダヤ人コミュニティ跡を歩く   2008年夏

6月下旬から7月中旬にかけて約三週間余バルト三国と北欧のヘルシンキ、ストックホルムを旅行してきました。今回の旅行の主な目的はあるユダヤ系旅行社の「バルト三国の旧ユダヤ人コミュニティを辿る旅」という企画に参加して夫の母方の祖父母が生まれ育った国ラトビアやその隣国のリトアニア、エストニアを訪ねることでした。北欧にはそのついでに足を延ばすことにしたものです。初夏のバルト3国、北欧はどの国も暑くもなく寒くもないすばらしい天気続きで各地の名所旧跡も快適に堪能することが出来ましたが、旧ユダヤ人コミュニティの悲惨な歴史の跡にはあらためて胸を塞がれました。2年前のポーランド、オーストリア、ハンガリー、チェコスロバキアの旅でも同じような思いをしましたが、今回は訪れた所が夫の祖父母の故郷やその近隣の国であったことから特にその思いをより身近なものとして感じたような気がします。

ハッサ・シュパネフリーさん日程の第一日目はリトアニアの首都ヴィルニュスです。ここではまずオールド・タウンにあるかってのユダヤ人地区(今は記念碑がたっているだけで何も残っていません)を散策したあと、ユダヤ人コミュニティセンターを訪れ、ハッサ・シュパネフリークという87歳の女性のお話をうかがいました。 ハッサさんはリトアニアでホロコーストを生き延びた数少ないユダヤ人の一人です。彼女は1941年にヴィルニスに作られたゲットーが1943年に解体される1週間前(解体された時までに、あるいはその時、ほとんどのユダヤ人が殺害されています)数人の仲間たちと命からがらゲットーを抜け出し、20キロほど離れた森林の中でゲリラ兵として様々な形でナチスと戦っていたロシア人やユダヤ人から成るパルチザンのグループに加わります。そしてその後は闇にまぎれてナチスを狙撃したり列車妨害 などにあたるグループの人たちの主には食事の世話、伝達係りなどをして戦争が終わるまでをそこで過ごしました。(写真はハッサーさんと後方はバルチザンの人たち。)

パルチザンの隠れ家パルチザンの隠れ家が今も点在したまま残されている森林にその後私たちも案内されましたが、上空からも絶対発見されることのないように、入り口を除く建物のすべてが鬱蒼とした木々でカムフラージュされた小屋の様子や、昼間は自由に外を歩くこともできず、十分な食料もなく、凍てつくような冬の日も、うだるような夏の日もゲットーを出た時のままの一張羅で数年を過ごしたという彼女の話しから、想像を絶する過酷な毎日の生活が偲ばれました。それでも家族や周囲の人たちが殆どが殺害されたことを思えば自分はラッキーだったとハッサさんは言います。彼女は戦後パルチザン時代に知り合った男性と結婚し、一男一女をもうけます。

ご主人は10年ほど前に他界され、現在は重症の身体障害を持つご長男を介護しながらの毎日をお過ごしとのこと。苦しかったゲットーでの生活、命からがら脱出した時のこと、親兄弟をなくしてしまったときのことなどをまるで人生を超越してしまったかのようなおだやかさで淡々と話されるハッサーさんのやさしい笑顔には「地獄」をみてしまった人の強さがあらわれているようで不思議な感動を覚えました。

お母さんの写真を指差すハイムさんリトアニアで私たちを通訳兼ガイドとして案内して下さったハイム・バーグマンさんは現在58歳。第二次大戦の頃にはまだ生まれていませんが、彼のお母さんもゲットーを奇跡的に生きのびた人です。5年ほど前に亡くなられたとのことですが、彼女の写真や遺留品の一部がカウナスの郊外にあるナインス・フォートというホロコーストミュージアムの一室に展示されています。ナインス・フォートはもともとロシア軍のために作られた要塞で、上空から見えないように地下に掘られた幾重にも繋がる細長い洞窟から成る建物です。1941年から1944年までの間にナチスはここで5万人の人々(敵国の捕カウナス在住のユダヤ人)を殺害しています。

ナインス・フォートハイムさんのお母さんの写真がここに展示されているのはカウナスのゲットーを生き延びて当時の様子を伝えることの出来た数少ない生き証人の一人だったからです。それでもハイムさんによるとリトアニアで歴史の事実が見直されるようになったのはソビエト政権が破壊されてからのことでホロコースト生存者はそれまでその過去に言及することすら公には許されていなかったようです。ハイムさんは、亡くなったお母さんのためにも、ガイドとして歴史の事実を多くの人に伝えていくのは自分に課された使命であると思うと話していました。

杉原記念館ナインス・フォートには一室全部を使って杉原千畝領事の業績を称えている部屋もあります。杉原さんは領事として主にポーランド系のユダヤ人に日本通過のビザ を発行したのですが、それがリトアニアでなされたことでこの国の領事に対する評価は他の国にまして高いようです。杉原さんが日本領事館として使っていたカウ ナスにあるオフィスは、現在杉原記念館として保存されています。ヴィルニュスのネリス川湖畔には領事の記念碑が、ユダヤ美術館の庭園内には領事の業績をあら わす石像がたっています。(この美術館の内部にも領事の業績を称える部屋があります)同市にはまたスギハラ通りという名前のついた道もあります。ハイムさん はこうした場所のすべてに私たちを案内しグループのユダヤ人一人ひとりに杉原という日本の領事にリトアニア人がいかに敬愛の念を持っているかを力説していました。

 
大量虐殺跡バルト3国のユダヤ人たちのほとんどはアウシュビッツのような絶滅収容所には送られていません。収容所が出来る以前に既にその多くが徒歩で連行できる距離にある山の中や森林で銃殺されているからです。虐殺の跡は今では記念碑がたっているだけで当時の様子を想像することは難しいのですが、掘られた大きな穴がそのままの形で保存されているパネリュー大量虐殺現場跡のような所もあります。ヴィルニュスの郊外にあるこの森はもともとロシア軍がオイルを貯蔵するために深さ約35メートル、直径20メートル(大きさは様々)ほどの穴をいくつも掘っていたのですがナチスに占領されたあとは大量虐殺場になります。各地から連行してきた人たちを一人づつ穴の外に並べそのまま中に倒れこむように銃殺していったのです。自分が次の犠牲者になるとも知らず、順番を待っている人たちには彼らが銃声を聞いて暴れたりしないように、耳をつんざく鋭い機械音を常に現場に鳴らし続けていたのだとか。バルト3国のこうしたユダヤ人大量殺人の多くはナチスの命令を受けた各地の警察や軍部、志願兵によってなされています。

連日の銃殺は殺す方も大変で気がおかしくなったりする人も少なくなかったようで、ナチスはこの虐殺法をヨーロッパ全域で大規模に実践するには時間や人材がかかりすぎ、効率的でないとして毒ガスを考えついたのです。ホロコーストといえばアウシュビッツに代表される絶滅収容所のことが思い浮かびますが、バルト3国の各地に残されている大量虐殺跡は、殺害がそれより以前から行われていたことを歴然と示しています。小さな墓標や記念碑の前に立って犠牲者の無念さを偲びながら、今もまだ世界のあちこちで繰り返されている人種間の争いに思いを馳せずにはいられませんでした。

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