Scarsdale
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ある母親の記録

祖 国 の 繁 栄 の か げ で

ニューヨーク補習授業校のこと
(1)   


子供たち。おまえたちも知っているようにマミーは一昨年から昨年にかけて一年間、おまえたちの通っている補習校の父母会会長をつとめた。この仕事を引き受けたのは、他にやるという人がなかったせいもあるが、すすんではいきたくない土曜日の学校でマミーが頑張っている姿を見せればおまえたちにも少しは励みになるかも知れないと考えたからだった。その意味ではマミーは会長職を引き受けて良かったと思っている。マミーの姿を学校で見つけるとおまえたちはいつも嬉しそうに飛んできてくれたし、マミーが父母会の「会長」と言うのはおまえたちにも何となく得意に感じるところがあったらしく、少なくともあの間行きたくない素振りは見せなかったような気がする。マミーの気持ちはおまえたちなり によく理解してくれたようだった。

さて、マミーはそれまでもおまえたちが幼児部から補習校に入学して以来ずっとクラスマザーなどの仕事を通して関わりはもっていたけれど、それにしても会長職は思ったよりずっと忙しい仕事だった。毎週土曜日の学校での用事は言うに及ばず、家にいても時を選ばずかかって来る電話は、「マミーの耳に電話がはえてしまった」とおまえたちを嘆かせたし、夕食の時間さえしばしば遮られるのには日頃協力的なダディも露骨に嫌な顔をしたものだった。補習校の成り立ちだとか、日本人の子供たちの教育の現状がよく分かったことや、たくさんの熱心な日本人父兄の方々と知り合いになれたことは自分のためにもとてもよい経験だったと思っているが、おまえたちのために引き受けたのに、宿題を見てやる時間さえなかったばかりか、正直にいうと、あまりの雑用に音をあげたい思いをしたこともしばしばだった。

雑用が純然たる父母会の仕事であったらそれでもまあ、何とか納得は出来たかもしれないけれど、学校の責任ではないのかと訝かられるような仕事もかなりあって、何となくすっきりしない気持ちにさせられることが多かった。子供の通う学校で親が手伝うのは当然とする考えはマミーはいつももっているのだけれど、父母会に課せられた仕事量は補習校の運営そのものに疑問を感じないではいられない程のものだったのである。補習校は、ニューヨークに十二校(今年は十三校になったが)あって各校の父母会会長、副会長が二か月に一度連合会と呼ばれる学校関係者との会で一堂に集まるが、その席で話を聞くと、ほとんどの人がマミーと同じような疑問を感じているようだった。

マミーはこれもおまえたちがよく知っているようにアメリカの学校でもPTA役員としてずっと仕事を続けているけれど、時に忙しいことはあっても、仕事量を負担に思ったりしたことなど一度もない。もちろんちゃんとした設備、システムの整ったアメリカの学校と一週間に一度校舎を借りて運営されている日本語の補習校を同じ観点で比較することの無理さは分かっている。しかし、今や生徒数四千数百名を有し、ほとんどの学校がその数でアメリカの学校をはるかに凌ぐことを思えば両者の違いを思わずにはいられないのである。二十六年前、三十人の子供の為に設立された補習校が、その後の目覚ましい国の発展にかかわらず、そのありかたが原則的に設立当初と変わっていないことに非常に考えさせられる訳だ。

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日本語補習校のこと (2) 相対評価と絶対評価

「もしもし、ミセス キャッツですか?」
「はい、そうですが。」
「こんにちは、ミセス キャッツ。ヒーブルスクールでデビの担任をしておりま すロースティンです。デビのことでお話ししたいことがあって電話しました。」 本人が家にいるのだから事故などではないことは分かっているのに、それでも 担任の先生から話がある等と言われてマミーは一瞬どっきりする。

「ミセス キャッツ、お宅ではいったい子供たちにどんな教育をしているんですか?」 ミス・ロースティンの甲高い声にマミーの心臓ははやがねのような鼓動を打ちはじめる。これは大変だ、一体デビーは学校で何をしてくれたんだろうと、お前のするかもしれないことを頭に巡らして見るが、咄嗟の事で何も思い付かない。

「どんな教育って...」何と答えていいか分からず、ドギマギしながら口ごもっていたマミーの耳にはってきた次の言葉は、マミーの心配を一瞬にして吹き飛ばす意外なものだった。ミス・ロースティンは急に声の調子を落とすと笑いながら、いったいどんな教育をしたらあんな良い子供が出来るからと言ったのである。                                          

「私はお宅のダニー(長男)も「歴史」の時間に受け持っていますが、二人とも成績、人柄ともに実にワンダフル・チルドレンです。あなたは母親としてユダ ヤ人の子育ての方を書くべきだと思いますよ。」「ああ、びっくりした。先生、驚かせないで下さい。私はまた娘が学校で何をしでかしたのかと心臓が縮む思いがしました。」                                     

「あなたの子供たちがそんなことする訳ないでしょ。今日電話したのはね。来 週の年度末でこの学校をやめますので、その前に二人の素晴らしい子供を持つ母 親のあなたに是非一度その事がいいたかったからなの。これからも母親としていいお仕事を続けて下さいってこともね。」                 

その言葉を聞いてマミーはわあっと喚声をあげたい程の喜びに全身を包まれた。おまえたちのことを誉められたのが嬉しかったのはもちろんだが、ユダヤ人学校の先生に日本人のマミーが母親としていい仕事をしているなどといわれたことが本当に思いがけなかったからである。その夜、早速夕食のテーブルでこのことを話すとダティは、「それはもちろん僕と言ういいコーチがいるからだよ。」と威張って言ったけれど、考えれば確かにそうだよね。子育てで我が家でダディの占める役割は大きいし、特にユダヤの教育と言う面に関してはダディなしには出来ない訳だから、その意味でミス・ロースティンの言葉は二人に向けられたと言うべきだろう。それにしても、冗談にせよ、日本人のマミーにユダヤ人の本でも書いたらどうかなどにくいほめかたではあるよね。

それにしても、特に勉強をみてやったこともないユダヤ人学校で母親として素晴らしい仕事をしているなどと言われて何だかくすぐったいような気持ちになる一方で、母子ともに懸命に努力している日本語補習校では、誉められるどころか、ついていくのも、いかせるのもやっとと言った状態なのには皮肉を感じてしまった。実際、補習校にはもう五年以上関わりをもち、その間父母会にもずっと参加してきたし、おまえたちとも一緒にずいぶ勉強もしてきたけれど、どう努力しても通知表の上でおまえたちに与えらる表かはいつも劣等生なみだものね。

アメリカの学校でとられている絶対評価と違って、クラスの子供たちとの兼ね合いでつけられる相対評価では、おまえたちがどんなに頑張っても日本からきた子供たちに太刀打ち出来る訳はないし、またその必要があるとも思えないけれど、努力に対する評価が与えられないのは何となく寂しい気はする。でも日本から来て日本へ帰る子供たちの日本語の補習が目的として設立された学校のなりたちを考えれば、おまえたちのように母国語が英語である者が補習校で勉強することじたい無理な話しなのかもしれない。理想的に言えば、例えばユダヤ人学校のように、語学や歴史、文化などの教育を主とする学校で日本文化や習慣、日本語などを勉強出来る所があればよいのだけれど、実際どこにもそんな学校はないし(マミーは頑張って自分で作ろうと思った一時期もあったのだけれど、実現させるエネルギーがなかったのだ)やむなく補習校を利用させていただいているわけだ。

そんなわけで、補習校でおまえたちに付けられる成績の評価などどんなに悪かろうと、おまえたちの能力とは関係ないことなのでマミーは、ちっとも気にしていない。ただ、評価もさることながら、ダニーの場合、昨年四年生になったおまえが、授業内容が理解出来ず所在なげに座っている様子を参観でみているうちにマミーはこれ以上補習校でおまえに勉強をさせることにも疑問を感じたのである。そこで、ダディも含めてよく話しあった結果(おまえに異存のあろうはずもなかったけれど)日本語の勉強は個人の先生にお願いすることにしたんだよね。今三年生のデビもいつまで通学出来るだろう。日本へ帰る子供たちのことを考えれば、この地で生まれたおまえたちが困らないで授業についていける程ゆったり教える余裕など補習校にはないのだから、いずれ近いうちにおまえもやめることになるだろう。その時がきたとしても、それはおまえの努力とは関係ないことだから、おまえがそれをネガティブに感じる必要はまったくまったくない。

おまえたちのように英語を母国語とする子供たちにまで手をさしのべるには、今の補習校には他にやらなければならないことが多すぎるし、その意味でマミーは、おまえたちのためには補習校に何の注文ももっていない。ただ設立の対象となった子供たち...つまり、駐在員家族の子供たちのためには言わずにおれないことが一杯あるのだ。

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ニューヨーク補習授業校のこと(3) 無責任な日本政府

デビ。はじめて自転車に乗れた日として、おまえは昨日のことをきっと忘れないと思うよ。後ろから押してる手を離した途端、おまえがすいすいと一人でペダルを漕ぎ始めた時の感激はマミーだって忘れないと思う。自分でもよほど驚きだったと見えて、「マミー、見てみて!自転車が一人で動く!」と、叫んだおまえの嬉しそうな様子といったら、マミーにも自分がはじめて自転車にのれるようになった日のことがありありと思い出されて、思わず胸が熱くなってしまった。

マミーの幼かった頃は、おまえたちのように専用のものを買ってもらえるなんて余裕はもちろんなかったから近所の叔父さんの大人用自転車を借りて練習したものだけれど、ペダルに足がつかないものだから、バランスを失って転倒する時の痛さは何ともいえないものだったし、走ってきた犬を避け損なって下水に突っ込み、隣近所の人たちに「臭いなあ!!」などといわれながら引き上げられたりしたこともあった。でも短い足で、ペダルを思いっきり強く蹴りながら、風邪を切って走れるようになったときの喜びは、何といったらいいのか世界征服でもしたような晴れがましさだったような気がする。自転車にのれるようになったくらいであんなによい気持ちになれたあの頃のマミーにはもちろんもう帰れはしないけれど、おまえの得意そうな顔が自分の幼い日の姿に重なって、おまえの嬉しさはそのままマミーの喜びとして伝わってきたのだった。何回やってもうまく行かなかったあとだけにその喜びは余計に大きかったのかも知れない。それにしても公園からの凱旋の後に二人で食べたアイスクリームのおいしかったこと!喉も乾いていたけれど、あれはまさしく勝利の味だったのかもしれないね。

さて前回の続きで補習校のことだが、今、補習校が一番困っているのは、児童数の増加に対し、教師が絶対的に少ないことのようだ。補習校で教師になる資格としては、日本の短大卒以上で子供の教育に興味をもっている人となっているが、その意味では資格のある多くの母親が会社の方針やビザの規制で働けないことも含めて、学校にとって250余名の教師を常に確保しておくことなど至難の技のようだ。このため、中には教えることに問題があるのではないかと訝かられるようなケースでも、教壇に立たせざるを得ず、結果的に子供たちの大切な母国語の学習の場を理想から掛け離れたものにしている例もある。もちろん、そうした例はまれだが、土曜日の出勤で、しかも滞在年数のそれぞれに違う子供たちに、日本で1週間かかってこなす教務過程を一日に短縮してと言う作業は、決して楽な仕事ではなく、そのため補習校では、おまえたちも経験しているように、受け持ちの先生が一年のうちに2、3回かわったりするのも、決して珍しいことではないのである。 

補習校で学校運営の中心となっているのは、文部省から三年任期で派遣される校長一名、教頭一名、主事六姪の八名の先生方だ。つまり、校長、教頭先生は、児童生徒数4400名、学校数13校の長であるばかりではなく、現地採用教諭250余名の監督者でもあると言うわけだ。これでは校長先生がいかにスーパーマンでも父兄や子供たちと接する機会が少ないことが分かるだろう。そして、この、校長、教頭が全体にそれぞれ1人、6名の主事が2、3校を掛け持って現場の指導にあたると言う現状は、当事者に激務を強いているだけではなく、責任者の不在で学校と父兄の間にほとんど対話がないことなど、実に多くの問題を含んでいるのだ。派遣教師の方々はもちろんそれぞれに与えられた環境の中でご自分の役割に真面目に取り組んでおられるのだが、学校と父兄の対話不足は、父兄の学校不信、教師不信を生みだしているようなのだ。このことは決して子供たちにいい影響を与えるとは思われず、現場の先生方の立場も難しくしているようだ。

それにしても、日本政府は「現地校主義」を唱えて先進国では現地の教育を受けるよう奨励しながら、4000人以上の子供たちの母国語の教育に対して、実際には、教科書配布、一部の経済援助の他8人の教師を派遣しているだけなんて、考えこまずにはいられないではないか。

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ニューヨーク補習授業校のこと (4) 疎外感

「あたしアメリカの学校でお勉強する日本人の子供たちってとっても幸せだと 思うな。」土曜日の日本語補習校からの帰りみち、車の中でおまえが思い付いた ようにふともらした一言はマミーにとってとても考えさせられるものだった。

「どうして? どうしてデビちゃん日本人の子供が幸せだと思うの」
「だってね、アメリカの学校では新しい子供たちが入ってきたらみんながいろんな事で助けてあげようとするし授業中に分からない子がいたりしたら後でヘルプしてあげたりするんだけど、日本語学校ではだれもそんな事してくれないんだもの。」

「デビちゃんの事日本語があんまり上手じゃないからって苛めたりする子がいるの?」
「違うの、誰かに苛められるとかそんなんじゃないの。苛めるということはその子に少しでも関心があると言うことでしょう? あたしに対してそんな関心のある子いないみたい。どういう事かというとね、例えばあたしが何か分からなくて困っていてもみんな知らんぷりしてるし、遊ぶ時だってそれぞれのグループで固まっててあたしのいることなんか全然目に入ってないって感じなの。時々外人だとかアメリカ人なんてあたしの事を言っているのは耳に入るけれど。」
「デビちゃん、前はよく今日はお友達とどんなことをして遊んだとかマミーにお話ししてくれてたじゃない。その子たちはどうなったの?」
「そうなのよね。二年生の時までは休み時間にデビちゃんもおいでって誘ってくれてくれる子は何人もいたの。でも三年生になってクラスが変わってからそういう子が別のクラスにいっちゃったり殆ど日本に帰っちゃったりしたのね。それで最近あたしほとんど学校で他の子供たちとお話しした事ないんだ。」
「おしゃべりのデビちゃんが一人で黙ってる恰好なんてマミーには想像しにくいわ。じゃみんなが遊んでいる時デビちゃんは何してるの?」
「黒板にお絵描きしたり、ノートに落書きしたりしてる。」
「それでデビちゃんそんな時寂しくない?」
「少しはね。でも休み時間は短いし、どうしてもお友達が欲しいって言う訳じゃないから無理に仲間にいれてもらおうとも思わないの。お友達ならアメリカの学校にもヒーブルスクールにもたくさんいるしね。だから、寂しいとかそんなんじゃないんだけどあたしいつも思うんだ。あたしに比べるとアメリカの学校でお勉強する日本人の子供たちはずっとラッキーだなあって。」

そこでマミーはダニーも三年生になった頃から、「アメリカの学校では英語がどんなにへたでもだれかが読んでいる時に笑ったりはしないけど、日本語学校では僕がちょっとでも間違って読んだりするとすぐどこかでくすくすとやりだすんだよ。僕、あのくすくすって言う笑いが本当いやだ。」とこぼしはじめていたのを思い出したのだった。子供たちには決して悪気がある訳ではないとマミーはその度に諭したのだけど結局ダニーは笑われるのがいやさに先生にあてられても音読するのを拒むようになった。そして、最終的には授業についていけないこともあって辞めてしまったけれど、社交性とか柔軟性と言う点ではダニーよりはるかに富んでいると思われるおまえもが日本語学校に対してダニーと同じ頃にはっきりした形の消極的な意見をもち始めたのがマミーにはとても興味深く思われた。

アメリカの学校で勉強する日本人の子供たちの方が日本語学校で学ぶおまえたちよりずっとラッキーだとするおまえの考え方は、もっといろいろな角度から子供たちの様子が見えるマミーには全面的には賛同出来ないけれど、おまえがそう思わざるを得ない気持ちはよく分かる。アメリカの学校でクラスメートや特に日本人の子供たちのヘルプを喜んで引き受けているらしいおまえにすれば日本人学校で自分に向けられる周囲の無関心さには理解し難いものがあるに違いない。あまり寂しくないとおまえが言うのはお友達が他の所でたくさんいるからと言うのは事実だとしても、正直な所はどっちみち自分は違うんだからみんなと一緒に遊ぶ必要はないんだと言った精神的な垣根で自分を守っているからではないだろうか。だれだって傷つくのはいやだものね。

それにしても世話好きで明るくお友達の間でもかなり人気者らしいおまえが日本語学校ではほとんど関心すらもたれていないらしいと言実はマミーをとても悲しくさせる。おまえたちにはマミーが日本に対してもっている思いをそっくり分けてあげたいといつも思ってきたしそれに対する努力もして来たつもりだけど、それがいかに難しいかをあらためて感じる。そしてそれにもまして気になるのは、いつも一人ぽつねんと座っているおまえのようなクラスメートにどうしたのかという問い掛けも、誘い掛けもしないらしい日本人の子供たちの感受性のありかただ。アメリカの学校ではみんなに助けられながら適応していく子供たちが補習校では助けを必要としているのが明らかなおまえのようなクラスメートにだれも手も伸ばさないというのは一体どうしたことなのだろう。

ダニーが最終的に辞めるに至ったのも授業の難しさもさる事ながら、周囲の無関心も要因だった事を思えば、中退していくおまえたちのようなケースは多いのではないかと思う。中にはうまく交わっているケースもあるのかも知れないけれど、自分たちのアイデンティティをはっきり認識しはじめ、「内」と「外」の明らかな境界線を自分たちの周囲に張り巡らせはじめている日本人の子供たちの中でおまえたちが疎外感を感じないで過ごすのは恐らく不可能に近いであろう。国際化とか国際相互理解とか言った言葉がいろんな所で使われているが、日本人の子供達がおまえたちに見せる姿勢一つにもそれがいかに難しいかが現われているような気がする。マミーには「素直で良い子」にうつる一人一人の日本人の子供達がおまえたちに見せる違った側面は自分の中の「日本人」と言ったものについて考えさせないではいられないものだ。日本語も大切だけど、おまえの中のもっと大事なものがこの違った側面によって傷つけられる事をマミーは恐れる。おまえにも辞める時期が近ずいているようだ。

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ニューヨーク補習授業校 (5) さよなら補習校 

「デビちゃん、補習校のことだけどね、マミーもあれからよく考ええたんだけど、デビちゃんが本当にいやだったらもうやめてもいいと思うんだけど、どうする?」
「ほんとう? そんなこと言って、やめるなんて言ったら、マミー突然怒りだしたりするんじゃない?」
「マミーってそんなに突然怒ったりするかしら。なんだか信用がないのね。大丈夫よ、このことはデビちゃんに任せようって決心したんだから、絶対怒ったりはしないわ。デビちゃんの正直な気持ちを聞かせてくれればいいのよ。でも、本当の所はやっぱりもっと続けたいんじゃない?」 
「続けたいって、あたしがー?マミーったら、またあ! ねえ、マミー。ほんとうに、ほんとうにやめてもいいの?。後で気を変えてやっぱり行きなさいなんて言うんじゃないでしょうね。」 
「もちろん言わないわよ。四年以上一生懸命頑張ってきたデビちゃんのこと、ちゃんとマミーは見てきたんだもの、このことに限ってはデビちゃんの意志を尊重するわ。自分で決めていいのよ。そのかわりやめたあとは日本語のお勉強は他の方法で続けて行くことになるけれど、それでも構わないわね。」
「そんなこと、構うわけないじゃない。じゃあほんとうにやめてもいいのね。イェーイ!サンキュー マミー!」
嬉しそうに飛び上がって、私の首筋にしがみつくおまえの背中を優しくなでながら、正直な所ほっとしていたのは、おまえよりむしろ私の方だったかも知れない。ダニーが幼児部に入って以来六年余、すすんでは行きたくないらしいおまえたちを何とか説き伏せて通わせては来たマミーではあったけれど、ここしばらくは、そのことに意味があるかどうかもずっと疑問に思ってきたし、引っ張っていくのにもかなり疲れていたので、ダニーに続いておまえも躊躇もなく「やめる」と、言ったのには何だか救われるような思いがしたのだった。もっともおまえの本当の気持ちなんて、確かめるまでもなくマミーにはいつだってよく分かっていたのだから、反対するかも知れないなんて心配したことなど一度もなかったのだけれど。
「でも、実際やめるとなると、四年以上も通って来た学校なんだし、何となく寂しい気がしない?」
「寂しい? 全然。だって四年生になってから授業は分からなくなっていくばっかりだったし、お友達だって一人もいなかったんだもの、本当の事言って嬉しいだけよ。ただね、一つだけ気になることがあるとすれば、それは、マミーを悲しませるんじゃないかと言うこと。だってマミーは補習校でいつもとても楽しそうだったから。」
「そうね、マミーにとって補習校は、決していやな所ではなかったわね。小さかった頃の思い出に浸れる懐かしい場所だったし、日本にいる時みたいに日本語で精一杯お話の出来る楽しい所だったわ。でもね、マミーのことだったら気にしなくてもいいのよ。いくらマミーが補習校の雰囲気が嫌いではないからと言ったって、実際勉強するのはデビちゃんなんだしね。マミーがそうして欲しいからって、強制して何かをやらせるには、デビちゃんはもう大きくなりすぎたと思うの。それに、デビちゃんみたいな頑張り屋さんで、フレンドリーな子供の楽しめない学校なんて、これ以上続けて通うことなんか意味がないわ。デビちゃんは、これまで本当にいつも一生懸命やってきたんだからね、ここでやめたって、後悔する事は何もないのよ。日本語の勉強は他の方法でやればいいんだしね。それにしても、補習校はダニーに続いて、デビちゃんみたいな素晴らしい生徒をまた一人失うことになる訳だけど、仕方がないわね、デビちゃんたちのよさが認められないような学校に何時までもつきあってなんかいられないもんね。じゃあ、今月でやめることにしよう!それでは、四年余り頑張ったねぎらいと、デビちゃんのこれからのお祝いを兼ねて、アイスクリームでも食べに行くか!」
「賛成、賛成!」
飛び上がって喜んでいるおまえの様子を見て、マミーは、補習校に対する自分の思いとおまえのそれにいかに大きな隔たりがあるかをあらためて感じたのだった。そして、その隔たりの分だけ、ダニーもそうだったけれど、マミーの気持ちを考えて、こちらから言うまで自分からは絶対やめたいなどと言い出さなかったおまえたちの思いやりが感じられてとても嬉しかった。

願わくば、補習校が、おまえたちのような子供が楽しく学べるだけでなく、日本人の子供達がアメリカの学校で受け入れられているように、アメリカ人の子供達でも希望する者は入学出来るような、そんな余裕のある学校になればと思うのだけれど、現状ではそれはとても見果てぬ夢に過ぎないと言う気がする。大多数を占める駐在員の子供たちのためにさえ問題が山積みと言うのはもちろんその一因だけど、人数の増加に伴って、ますます自分たちだけで固まりはじめている最近の同胞のありかたを見ていると、もっと本質的な所でその不可能さを危惧しないではいられないからだ。

例えば、アメリカの学校でも、以前は早くアメリカ人の中に溶け込もうといじらしい程の努力をして来た日本人の子供達が、お互いの存在が増えた事でその必要を感じなくなって来ているようだし、おまえたちが補習校でしばしば悩まされた「疎外感」は、その程度こそ違え、今では時としてアメリカの学校で、アメリカ人の子供たちが日本人に対して抱く思いになっているようなのだ。もちろん子供達はそれなりに頑張ってはいるらしいのだけど、お互い同士の付き合いみたいなこともあるようで、アメリカの学校で学びながらが、滞在期間中にほとんどアメリカ人とは口をきいたこともなく帰国する子供も出はじめているのである。その上、最近は大手学習塾の進出で、子供達はますます日本語の勉強に忙しくなって、中には渡米する前から、現地校より塾に通学便利な家を物色する家族もいると言う。アメリカにいながら目はいつも日本へ向けられていると言う親の姿勢は、今やはっきりした形で子供達の生活にあらわれて来ている訳である。いずれは帰っていく人達の身になれば、そのありかたを責めることは誰にも出来ないにせよ、アメリカに暮らしながら、日本と言う大きな荷物を一時たりともおろせない生活が果たして子供達にとっていいことなのかどうか、マミーには疑問を感じないではいられない。

そして、そのことを考えれば、おまえたちの楽ではなかった補習校生活も真実頷けると言うものだ。マミーはおまえたちによかれと思うあまり、おまえたちはマミーへの配慮から、お互いにやめると言い出しかねていた所があった訳だけれど、それも、もはやこれまでと言う感じだ。ニューヨークにいてさえ、怒濤のように押し寄せて来る現在日本の教育事情におまえたちまでが巻き込まれる必要なんかまったくない訳だものね。それにしても、いやいやながらの時もあったとは言え、文句も言わず黙って通ってくれたおまえたちにマミーはとても感謝している。

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