さだ子と千羽鶴:
自らの非認めることの大切さ、平和運動に参加して思う
(読売,July 7, 1995)
ニューヨーク郊外、ウエストチェスターにあるスカースデールでは、去る6月17日、公立図書館で、広島へ送るための千羽鶴作りが行われた。広島や長崎の悲劇を再び人類に繰り返させてはならないと、ここ十数年来、毎年8月6日に町の中心部にあるチェイス公園で「ノー モア ヒロシマ」などと書かれたプラカードを掲げて無言の意思表示を続けて来たスカースデール平和運動団体が、原爆投下50 周年を記念して企画したものだ。当日は日米の住民が一緒に「さだ子と千羽鶴」のアニメを見た後、お互いに折り方を教えたり学んだりしながら、交流を深めると同時に、あらためて原爆について考える時間を持ったのだった。千羽鶴は、広島放送を通して、広島に送られ、その後、スカースデール・メイヤーからのメッセージを添えて、さだ子の像のもとに届けられた。
さて、日本には、スミソニアン博物館で予定されていた「原爆特別展」が大幅に修正されたことなどから、原爆投下を正当化する見方が根強いとしてアメリカに批判的な声が多いようであるが、25年来ニューヨークに居住し、草の根レベルの交流に積極的に参加してきた者としては、その批判は必ずしもあたっていないという思いが強い。私の周囲を見渡すだけでも、その理由が何であったにせよ、原爆は使うべきではなかったと考えている人たちは決して少なくないからである。にもかかわらず、一般にはそれが正当化され、唯一の被爆国である日本人の訴えも、アメリカに伝わりにくい面があるように思われるのはなぜだろうか。もちろん、原爆が戦争の終結を早めたなどその理由は、いくつかあると思われるが、私にはその背景に、ここ数年、日本で夥しく出版され続けている反ユダヤ本の影響もあるように思われるので、それについて述べてみたい。
このことに関して、私は、読売アメリカの3月17日号で、「『マルコポーロ』廃刊に思う」と題して、よく売れるからと言うだけの理由で一流の出版社までが、「ガス室否定説」などの無責任な出版物を発行すると言う事実が、日本人を誤解させている面があるとして、出版社の配慮を促す投稿をした。では、なぜ、こうした本がよく売れるのか。それについて、ホロコースト研究の第一人者の一人で、エモリー大学教授でもある、デボラ・リプスタッド女史は、その著書「ホロコーストを否定する人たち」の中で、「ガス室は連合軍がでっち上げた」とする欧米のリビジョニスト(歴史修正者)たちの説が日本で受け入れられやすいのは、アジア諸国で自らがおかした過ちをなかったことにしたい人達に都合のいい話しだから」と、第2次大戦中の残虐行為を清算していない日本のありかたに関連づけている。女史は、また、日本の経済や政治の問題がユダヤ人の陰謀のためとするような出版物に人気があるのは、「ドイツが全ての社会悪をユダヤ人のせいにしたように、自分たちで解決するべき問題を他者に押し付けるにはユダヤ人は格好のスケープゴートだから」と、指摘している。こうした指摘は、日本での反ユダヤの本が問題にされるたびに、ニューヨーク・タイムズなどのアメリカの大新聞でもなされており、私はこうした日本に対する見方が、原爆の悲惨さに対する真剣な訴えに対してさえ、「自分たちが他者に与えた被害には目を閉じながら、自らが受けた被害だけを声高に叫ぶ」ものとして、その声を届きにくくしている面を作り出しているのではないかと危惧するものである。
原爆投下は、どのような理由であれ、してはならないことだったし、これからも決して行うべきではないと言う日本の訴えが、アメリカで抵抗なく、多くの人に聞きいれられるようになるためには、自分たちの受けた被害だけでなく、他者に与えた被害も真摯に受け止める姿勢が必要とされているのではないかと思う。
同時に、日本を代表するような出版社は、無責任な出版物で日本人がいたずらに誤解されることのないよう配慮するべきであり、読者もまた他民族を誹謗するような出版物に対しては断固そうしたものを買わないと言う強い態度も求められているのである。そうした努力の積み重ねによって日本人が正しく理解されるとしたら、今回スカースデールで行われた「さだ子と千羽鶴」のような試みが、いつかアメリカの至る所で繰り広げられるようになる日が来ることも決して夢ではないと言う気がする。
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