Scarsdale
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スカースデール日本祭の提案と実践に至るまでの問題点


ニューヨーク領事館にあてられたフェステバル開催要請の手紙


japan festival-image「ニューヨークマガジン」でスカースデールがとりあげられた後しばらくして、ニューヨークの日本総領事館に一通の手紙が届きます。差出人は、当時スカースデール商工会議所の会長だった内科医のSさん。手紙の主旨は、「スカースデール商工会議所は、スカースデール村に在住する外国人をよりよく受け入れるために二年に一度インターナショナル・フェスティバルを開催することを決定した。その最初の国として、日米住民の摩擦解消を促進するため「日本」を選んだ。この案にはメイヤーや村議会も基本的に賛同している。ついては、開催にあたって日本総領事館の援助を求めたい。」というものでした。

それはちょうど、前述の「ニューヨーク・マガジン」の記事の直後だったこともあり、スカースデールのことは日本の新聞や雑誌でもしばしば報じられていたので、領事館としては何らかの形で要請に応えねばなるまいと判断されたようです。当時スカースデールの住民でもあった領事館のM領事から「ジャパン・フェスティバル」の開催について私が相談を受けたのはそれから半年後の11月のことでした。

それまで私は、「個人のなし得ることには限りがあり、増加する一方の海外の駐在員家族に対して政府や企業は、正確な実情を把握し、適切な支援を考慮する必要があるのではないか」と言うことなどをいろいろな所で訴えてきましたので、領事館からの話は各地での日米交流を促進するための一環として悪くはないのかも知れないと思われました。

一方、その案がアメリカ側から出されたとは言え、スカースデールのような地域で日本だけに焦点をあてるような大きなイベントを行うことが適当かどうかは非常に気になるところでした。村や学校の行政機関が、近年とみに住民の持つ文化の多様性に気を配った対応をしている様子をよく見てきたこと、領事館が本当に日本人家族を支援したいとしているのであれば、その方法は他にもあるように思われたからでした。

しかし、その後M領事と手分けして村内に在住している何人かの日本人に呼び掛けて話し合った結果、「アメリカ人側住民が日本人との交流を求めてそうしたことを望んでいるのであれば、それに対しては日本人側も何らかの形で応える必要があるだろう」という結論に達します。そこで日本人のフェスティバル実行委員会が組織され、日本企業駐在員のMさんが実行委員長、私が事務局長として動くことになりました。

私はこの時点でもまだスカースデールのような閑静な郊外で「ジャパン・フェスティバル」と言うようなイベントを行うということに何となく気になるものがあったのですが、施行することが決まった以上そうした企画がマイナスにならないよう協力することも、こちらに長く居住する者の責任かも知れないと思ったので、委員の一人として参加することにしたのでした。

フェスティバル開催の問題点

実行委員会はその後、新聞などを通じて日米双方の住民に参加と協力を呼び掛け、新しく日米合同の委員会を組織します。そして、定期的にミーティングを重ねながらフェスティバルの方法などについて話し合いを続けたのですが、回を重ねていくに連れ、アメリカ側の反応が全く芳しくないこと、商工会議所会長の手紙ではメイヤーや村議会からの賛同が得られているということだったのに、行政機関はおろか、肝腎の商工会議所からも会長の他は誰の参加もないことが気になりはじめました。そこで村役場のマネージャーにその旨を問い合わせると、「商工会議所はスカースデールにたくさん存在する民間団体の一つの組織にすぎず、村の行政の仕組みとはまったく関係がないので、そこで決定されたことに村議会が報告を受けたからといって、それで協力ということにはならない」という旨の返事がかえってきました。村が自治体としてそうしたイベントを決定する場合には、まず議会にそれが議題として提出され、十分な議論が尽くされた上、理事の票決をもってなされるもので、正式な手続きが踏まれていない「ジャパン・フェスティバル」のような企画を公の機関としてサポートする訳にはいかないというのがその主旨でした。領事館への手紙に書かれていた、二年に一度の商工会議所のインターナショナル・フェスティバル開催の案にしても、村議会が決定したものではないので、自治体としてはそうした計画に関与する予定は全くないと言うことも明らかになりました。

そこで商工会議所に「ジャパン・フェスティバル」案が決定されたと言う背景を問い合わせると、決定と言ってもそれは会長の提案に強いて反対はしなかったというだけで、新しい会長となった現在、組織としてそうしたイベントを実施する計画は全然ないと言う返事がかえってきました。

ここにおいて実行委員会は、「商工会議所」を中心とするスカースデール自治体の後押しを受けて、それに答える形ではじめたと思っていたフェスティバル案が、実際には当時たまたま商工会議所の会長だった一人のアメリカ人からの要請に過ぎなかったことが分かってきたのです。そしてその肝腎の立案者であるSさんは領事館を動かした時点で自分の責任は終わったものと思っておられるようでした。

ところが、実際にはその案がどんな形で、どこから出されたにせよ、その時点では既に日本企業の男性方にも実行委員に加わわっていただき、日米双方の新聞にもその計画が発表されていて、フェスティバル開催を突然ストップするのは難しい所まで来ていました。そこで今度は日本側があらためて村議会及び教育委員会に対して「ジャパン・フェスティバル」開催に協力を要請することになります。

さりながら、村議会や教育委員会は日本人住民から「ジャパン・フェスティバル」に対する協力を正式に要請されたからといって、それではといってそれをすぐに議会、または教育委員会にかけて承認という訳にはいかないのでした。領事館から話があったときに私も非常に気になったように、自治体や学区としては、やはり数ある外国人コミュニティの中から日本だけに焦点をあてるようなイベントに対して公の機関としてサポートすることは難しいことだったのです。

そこで、村議会や教育委員会は、実行委員会に対して、「フェスティバルを日本人コミュニティ主催として、村や学校と関係なく行うか、もしその協力を必要とするのなら、何らかの形のインターナショナル・フェスティバルを主催し、その一環として日本をいれるという形にしてはどうか」と言う提案を出します。つまり、はっきり言えば、やるんならあんたたちで勝手にどうぞ、やり方によってはお手伝いぐらい出来ないこともありません、と言うことのようでした。そんなことなら、村議会の賛同も得てあるとしたSさんの手紙の内容を基に新聞などで住民の参加を呼び掛けたこちらの思い違いをすぐ正してくれればよいものを、伺いにいくまで知らない顔をしていた村役場のやり方に何となくすっきりしないものを感じてしまったものでした。

あとで分かったことですが、ドクターとしての知名度はあったにせよ、村や学校の行政にほとんど関与していない(つまりはボランティアとしての知名度のない)Sさんが日本人を使っていったい何をやらかすのだろうと、好奇の目で新聞に目を通していた人たちも少なくなかったようなのです。日本人実行委員会が(私も含めて)行政のしくみをよく理解していたとしたら、領事館から話しがあった時点でそのことが議会で話し合われ、票決されたのかどうか、すぐ確かめることも出来たはずでした。しかし、実際にはそのあたりの事情がよく分かっていなかったこと、「ニューヨーク・マガジン」の記事のすぐあとだったことなどもあって、日本側がその手紙を「村全体の要請、つまり住民がそれを望んでいる」と、とってしまったことがことを複雑にさせてしまったようです。村の行政に関与している人達は、住民代表である自分たちに何の相談もせず、勝手に村の主催と称して祭を開くことを決め、それに向かって動いているように見えた日本人グループに密かに眉をひそめて、一方日本人側は、自分たちで言い出しておきながら、どうして誰も協力してくれないのかと、苛々させられる結果になっていたと言う訳でした。
 
そこで実行委員会は再び何回かのミーティングをもって検討を重ね、その結果、フェスティバルが一方的な日本紹介ではなく、「コミュニティとの対話」が目的であること、そのため、テーマを「コミュニティ・ダイアローグ」と名ずることなどを強調して再び村や学校の協力を求めたのです。すると、村議会も教育委員会も、渋々といった感じながらやっと協力を約束し、あらためてそれぞれのメンバーを連絡役として実行委員会に送り出します。実行委員に村で知名度の高い人たちがその名前をつらねたことから、自主的な参加も増え始め、最終的に、日米あわせて三十余名となります。ニューヨークタイムスがこの頃ウェストチェスター版(こちら)で大きくフェスティバルを紹介したことも住民の賛同を得やすくしたようです。

こうして最初に領事館からフェスティバルの話が来てから、実際に村議会や教育委員会の承認を得て企画が軌道にのるまで、半年以上の期間と各機関との数え切れないほどのミーティングを必要としたのでした。その一因には、前述したように日本側が、(フェスティバルを提案したSさんも)村の行政がどのように動いているのかをよく理解していなかったと言うことがあったようです。(スカースデール行政については、「自治体のしくみ」をご参照下さい。)

資金集め 
 
さて、実行委員会は、村議会や教育委員会の賛同を得て、正式に1993年春のフェスティバル開催を決定、あらためて開催に向けての準備をはじめます。そこで、次の課題は資金の確保です。フェスティバル予算は話し合いの結果、総額約10万ドルが組まれることになり、資金集めの方法などについては、M領事のご尽力で、そのうち65%を国際交流基金、15%をニューヨーク日本商工会議所に申請、残り20%を入場料や、寄付、プログラムの宣伝、富くじの販売などで補うことになりました。基金や寄付を受け付ける機関としては「ジャパニース・コミュニティ・アソシエーション」という非営利団体が設立されました。

結果的には、国際交流基金からも日本商工会議所からも申請どうりの額が助成され、実行委員会の資金担当の方々の働きで寄付、プログラム広告料、富くじのための賞品も予想以上に集まります。資金集めが非常に短期間で成功したのは、資金担当の方々が日本人男性、特に大企業上層部の方々であったからでした。私は、コミュニティのいろいろな非営利団体に頼まれて、日本企業にもよく寄付申請の手紙を書きましたが、ほとんど無視されることが多かったので、偉い方々が、一声、声をかけるだけで、(そんな風に思えただけで実際にはかなりの時間と労力をお使いになったであろうことも容易に推察出来ました。)寄付やオークションの賞品が魔法のように素早く集まるのを見て、本当にびっくりしたものでした。

 
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スカースデール日本祭いよいよ開催    





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