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真珠湾,原爆犠牲者への日米合同追悼礼拝に参加して: ある母親の記録 ( NY 日米, Feb. 13, 1992)
スカースデール地区ヒッチコック長老教会では真珠湾五十周年の翌日曜日、日米合同の追悼礼拝が行われた。礼拝の主旨は、「真珠湾攻撃で失われた人々の死を共に悼むことで、この日を『忌まわしい日』とする伝統から抜け出し、『調和の日』へ向けて両国民が共に歩む決意を新たにすることができるように」というもので、ヒッチコック教会のマクレナン主任牧師が同教会を借用しているユニオン日本語教会の安藤ゆり牧師に協力を呼びかて行われたものだった。
マクレナン牧師は合同礼拝を思い立った理由を新聞のインタービューなどに応えて、「調和への道は先ず両国民が共に痛みを分かちあることから始まると思われるのに、ハワイでの五十周年式典に日本側から誰も招待されなかったことに非常な疑問を感じたから」とされていた。宗教、国境を越えて共に祈ろうとする呼びかけは地方新聞などを通して広く伝えられたので、私も日本人の一人として参列させていただいたが。過去五十年アメリカが間断なく語りついてきた『忌まわしい日』をお互いの協力で『調和の日』にしようとする教会の熱意に深い感動をおぼえた。一方、日本側の礼拝の主旨として安藤牧師によって書かれた次のような誓いは、アメリカ人列席者に感銘を与えたようだ。
「私達はお互いを理解するために、そして五十年前の真珠湾攻撃で犠牲となられた方々を悼むために、今日ここに集まりました。さらに私達は、第二次世界大戦で日本軍に傷つけられ、殺された大勢の方々の痛みを意識し、この事実を忘れないためにも集まっております。私達はまた、わが国の過ちを個人的な罪意識でとらえるのではなく、歴史上の事実として、侵略し、支配したことをありのままにうけいれるために、そして米国及び他国の人々への尊敬の念をもちつつ、共に平和に向かって歩もうとして今日ここに集いました。」
礼拝のあと私は何人かの参列者と話し合う機会をもったが、共に追悼の機会を与えられてよかったとする人が多かった。真珠湾については、大新聞の社説や論説で見られた公平な受けとめられ方と違って、地方新聞やローカルテレビのインタービューなどではいまだに日本人を許さない、憎んでいるなどという過激な発言をする人も少なくなく、あらためて十二月七日がアメリカ人に与えているインパクトの大きさを感じていたので、礼拝に列席した人の多くからそうした感情を過去のものにしたいとする思いが感じられたのは嬉しいことだった。
ただ残念ながらその思いに比べて日本人参列者の少なさが気になることとして心に残った。日曜日でそれぞれ予定があったであろうことや、信者でない者として教会へ出向くことが躊躇されたかもしれないことなど、それぞれの事情を考えれば、もちろん参列者の数を云々する資格など誰にもないであろう。それでも僣越さを顧みず願わずにいられなかったのは、日本側住民はこうしたアメリカ側の草の根レベルでの真摯な呼び掛けに対して、もっと積極的に応える必要があるのではないかという思いだった。
合同礼拝へ参列することは、日本人もまた真珠湾を忘れていず、歴史の事実として痛みを共に分かちあいたいとしているという姿勢を示すよい機会であると思われたからだった。よき隣人としてのそうした姿勢は特に日本人駐在員家族の集中が様々な面で取り沙汰されている地域では地元民との交流の一環としても不可欠な要素ではないかと思われた。そしてアメリカ在住の日本人が真珠湾の痛みを共に分かちあうことからいずれ十二月七日が日本でも追悼されるようになれば広島や長崎の原爆記念日がアメリカで悼まれる日も決して夢ではないように思われた。
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